仙波の水辺と歴史探索

仙波の水辺と歴史探索
1.月日 4月22日(土)
2.集合 東武東上線 川越駅改札前 9:45 集合
3.行程 川越駅前10:00→浅間神社古墳→愛宕神社古墳→仙波河岸史跡公園→天然寺→
豪族仙波氏縁の長徳寺→龍池弁天→三變稲荷古墳→光西寺→中院(無量寿寺)→仙波東照宮(13:00)昼食後・解散
今回の例会は、シルバーガイドの永井さんに、普段訪れる人の少ない街の中心から離れた、川越南東部・仙波の古刹を案内していただいた。14名参加
1.浅間神社古墳(母塚)(市指定史跡) 
正面の小高い森が古墳で母塚と呼ばれている。
古墳は円墳で6世紀中頃のもの。高さ約5m、周囲42m。農業者で村落の指導者の墓といわれている。
頂上には浅間神社、本殿は岩屋に祭祀(写真左)。丸い穴(写真右下)は富士山の火口で聖地を表現している。


◆浅間神社境内の碑文「仙波の歴史」
仙波は仙波郷であり、その東端は往古に入江でありしと伝え、地名に仙波と称された。又、台地に浅間神社境内の石碑より上代の古墳・遺跡があって父塚・母塚・鹿見塚等がある。
鎌倉時代には村山党の高家が仙波氏と称して、この処の堀の内に居館し永く領知した。江戸時代には川越城附であり、又、寛文元年仙波東照宮の御神領地になった。
天保年間の郷帳に石高843石余と記され、更に新田の開拓もあり、なお発展を見ている。明治11年頃、仙波河岸を作り舟運の便も拓け河岸街道が開設された。
大正11年12月1日仙波村は川越町と合併し県下で最初の市制施行地とし発展した。
(川越市文化財保護委員・岸傳平撰文書より)
◆「万葉史跡 占肩(うらかた)の鹿見塚(ししみづか)」(県指定・旧蹟)

【浅間神社境内の万葉史跡】
浅間神社境内に、
鹿の肩で恋占いした万葉集の歌碑がある。
万葉集巻14の東歌
「武蔵野に占へ肩灼(かたや)きまさでにも
   告(の)らぬ君が名うらに出にけり」
武蔵野で、鹿の肩骨を焼いて占いをしたら、
誰にも言ったことがないあなたの名前が、
占いに出てしまいました。
という女性の歌である。
古代の日本人は、鹿の肩骨を焼いて吉凶を占った習慣があった。武蔵野には鹿狩りの際、鹿を見つけるための鹿見塚(物見台)があった。
この万葉歌の誕生地は謎だったが、この鹿見塚が西へ150mほど行った東上線の線路付近にあった。ところが東上線開通の際に破壊されてしまった。その場所の小字には「シシミ塚」「シロシ塚」などの記録が残っている。 建碑は便宜上、浅間神社境内に設置したものである。(市・立札の説明より)
2.愛宕神社古墳(父塚)市指定史跡
松尾芭蕉の句碑(左)    延命地蔵尊(中央)           愛宕神社古墳(右)
愛宕神社は仙波古墳群の一つで、高さ6m、東西30m、南北53mの円墳で父塚と呼ばれている。今から7~800年前の鎌倉時代、武蔵七党の一つ村山党に属した仙波七郎高家の墓という説がある。
頂上には「火産霊命」を祀った愛宕神社があり、火伏の神・麻疹の神として信仰されている。境内には延命地蔵尊、芭蕉の句碑などがある。
延命の御利益がある地蔵尊は、今から280年前の元文元年(1736)に祀られた。姿は、左足を垂下する半跏像である。
 「芭蕉句碑」 名月に 麓の霧や 田の曇り
芭蕉が伊賀上野赤坂で(三重県)月見した時の作品といわれている。赤坂も川越も共に台地の突端で眺望もよいところから選句されたといわれている。
ここ仙波地区は江戸の後期から俳句が盛んで、愛好家たちが選句をして、安政5年(1857)に句碑を立てた。ここ以外の場所にもあるという。
◆「仙波の滝」
愛宕神社を降りてくると「仙波の滝」と呼ばれる滝がある。これは神社の崖下からの湧水で、昭和の中頃まで流れていたという。仙波河岸は明治の初め頃、「仙波の滝」の水路を利用して愛宕神社の崖下の低地に開設された。
写真左、今は涸れてしまった「仙波の滝」。右上は明治34年頃「仙波の滝」で憩う人たちの写真。右下は「仙波の滝」付近に祀られている水神宮。剣先を口にしたチョッと恐い龍神の姿をしている。
3.仙波河岸公園
写真左、仙波河岸公園。僅かに、背景の愛宕神社の森と川の水溜りに仙波河岸の面影が残る。
写真右上、仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真。背景は愛宕神社の森。
写真右下、仙波河岸公園の取水口付近を流れる新河岸川。
◆新河岸川の舟運と仙波河岸の誕生
寛永15年(1638)の川越大火で焼失した仙波東照宮の再建資材を江戸から運ぶために新河岸川を利用した。その後近隣農村の発展に伴い、農村と江戸を結ぶ物資輸送の中継地として多くの河岸場が設置された。
川越には川越五河岸が整備されていたが、川越城下へは途中に急峻な烏頭坂があり荷馬車の費用が高くつく問題があり、扇河岸から仙波までの運河を明治2年(1869)開削に着手、明治12年(1879)に仙波河岸が誕生した。
愛宕神社の下から流れ出る「仙波の滝」の水路を利用して神社の崖下の低地に開設された。その後、東上線の開通、新河岸川の改修による水量の減少などで、昭和6年(1931)新河岸川の舟運は終焉を迎えた。

4.天然寺
国道16号線沿いに天台宗・自然山大日院天然寺はある。本尊は木造大日如来坐像で市指定文化財。平安時代末期頃の造立で市内でも古い仏像の一つ。境内には、願掛け観音菩薩像、慈母観音像、13仏像などが祀られている。
写真左、天台宗・自然山大日院天然寺、右上は13仏偕同の塔、右下は願掛け観音

境内には「小江戸川越七つ音の風景」の一つ水琴窟がある。
水滴が落ちると竹筒を通して地中の甕から聞こえる清らかな音色は訪れる人の心を癒してくれる。





5.長徳寺(仙波氏館跡)

写真左は、山門 
右上は本堂 
右下の碑には、「子供をよくしようと思えば親がよくなる以外にはない」とある。 親になるのも大変だ!
長徳寺は、仙波氏の持仏堂から派生した寺院で冷水山清浄土院と号す。
天台宗喜多院の末寺、開山は長徳元年(995)慈覚大師円仁と伝えられる。本尊は阿弥陀如来。
※仙波氏は武蔵七党の一つ村山党の一支族。
◆仙波氏館跡(市指定・史跡)
長徳寺は天台宗の末寺で「新編武蔵風土記稿」によると「永正甲戌(1514)天台沙門實海」の名が古い過去帳に記されていたという。境内には土塁と堀があったといわれ、周辺の小字に「堀の内」という地名が残っているところから仙波氏の館跡だと推定されている。
「保元物語」に仙波七郎高家、「吾妻鏡」に仙波平太・仙波太郎・次郎・弥三郎・左衛門尉などの名がみえ、これらは在名をもって氏としたことが考えられる。
仙波庄を唱うる村は南部の市内高階地区と上福岡・大井・富士見・三芳の各地区に広がっているものが多く、仙波氏の支配した荘園と考えられる。(市・立札・解説より)
6.龍池弁財天と仙波古代ロマン伝説
写真左、中央の高台に佇む龍池弁財天、正面の石柱は破損した鳥居一部。石柱には宝暦10年3月と刻まれていた。
写真右、下の方に龍池が見える。清水に鯉が泳いでいたが、龍神の化身かも。
この辺はかつて東京湾の入江で急峻な地形が多い。川越台地に誕生した海岸段丘崖といわれている。
◆「龍池弁財天」伝説の紹介
この一帯がまだ海であった頃、この地を霊地と感じた仙芳仙人がお寺を建てたいと思い立ち、この辺りを支配している龍神の化身であった老人に、着ている衣を広げた分の土地が欲しいと頼んだところ、老人は承知し、衣を海に投げ入れると数十里が干し上がった。
老人は驚き、自分の住める池を残してほしいと頼んだ。仙芳仙人は土仏を造り海に投げ入れると忽ち池を残して、海は退き陸地に変わった。この小さな池の脇に龍神のために弁財天を祀り、これが龍池弁財天といわれている。仙芳仙人はこの地に無量寿寺を建て、その寺が歴史の変遷を経て今の喜多院と中院になったという。 
かつてここには、芭蕉の句碑「名月や 池をめぐりて よもすがら」があった。今は喜多院の境内に移されている。 弁天様の本尊は中院に安置されている。(小仙波町公民館広報部資料から)
7.三変稲荷神社古墳(市指定・史跡)
墳上の巨大な椋(むく)の木は、樹齢千数百年といわれている。
8.緇川山浄楽院光西寺(浄土真宗・本願寺派)
右上写真、光西寺の山門と本堂。 右下、松平周防守家廟所(市指定文化財)、廟所には松井家塁代の遺骨170余柱が合葬されている。(松平周防守家の本姓は松井)
◆光西寺の略歴(別名士族寺・お供寺)
光西寺は永禄9年(1566)に恵誓法師を開基とする寺。浜田藩(島根県)藩士の菩提寺。
天保7年(1836)、藩は日本海「竹島」で密貿易を行い幕府の密偵・間宮林蔵によって露見した。徳川家の親藩の故をもって減刑され、重臣の切腹、船頭の処刑で藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。この時、家臣・光西寺ともども棚倉に転住した。
それから棚倉在住30余年。幕府は、藩主・松平周防守康英の外交手腕を重視して老中職に任じ、川越城主に転封させた。慶応2年(1866)10月、光西寺も家臣とともに川越に転地し、南町の養寿院門前の千手院を仮寺とした。大正の末に現在の場所に堂を建立した。藩についてきた寺として士族寺、お供寺とか呼ばれている。(光西寺の略歴より)
◆南院跡
南院は、正式には星野山・無量寿寺・多聞院と称する。明治の初めに廃院となり、写真で見るように現在は跡地とされる場所の一角に、数十基の石の塔婆やお地蔵様が残っているだけである。訪れる人もなく、お地蔵さんの姿も寂しげに見える。場所は中院付近、向かいの地にある。
9.中院(市指定・史跡)
中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚大師によって創立された。元来、星野山無量寿寺の中に北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していた。
当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安3年(1301)勅額所たるべき口宣の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。(市・立札・解説より)
昭和の文豪・島崎藤村の義母加藤みきの墓がある。
左写真、中院(天台宗別格本山)の山門。鎌倉時代、関東天台の本山の勅許を得、教寺580余が中院(仏地院)に属したという。 右上写真、中院の枯山水。 右の写真、中院本堂「無量寿」の扁額。
左写真は「不染亭」。
不染亭は島崎藤村が昭和4年に義母の加藤みきの茶室(市の指定文化財)として送られた茶室。川越市新富町に建てたものを加藤家の菩提寺・中院に移築したもの。
右上写真は河越茶・狭山茶の発祥の地碑。
天長7年(830年) 慈覚大師円仁・開山のとき、京より実を携え、 境内に薬用として栽培したのが始まりと記されている。その後、川越や狭山の各地で本格的に栽培されるようになった。(石碑より抜粋) 
10.仙波東照宮(重要文化財・建造物)
左写真は東照宮本殿、唐門と瑞垣。石灯籠は右から歴代の城主・松平伊豆守信綱、松平伊豆守信輝、松平甲斐守輝綱がそれぞれ奉納したもの。
右上写真は東照宮の明神鳥居。堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永15年9月17日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれている。
右下写真は東照宮拝殿。
◆仙波東照宮(国指定重要文化財)
元和2年(1616)、家康の没後遺骸を久能山から日光に移葬した。元和3年(1617)日光への途中、3月23日~26日までの4日間、遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要を行った。そのことから天海僧正が寛永10年(1633)1月、中院を移した跡に築山し東照宮を創建した。
その後、寛永15年(1638)正月の川越大火で延焼したが、藩主・堀田加賀守正盛が造営奉行となり、同年6月起工、同17年(1640)完成した。これが現在の社殿である。
本殿は三間社流れ造りの銅瓦葺、瑞垣は延長30間の瓦葺で中央正面には唐門がある。拝殿は入母屋造り、正面の向拝は1間、幣殿は拝殿の屋根に接続し、どちらも銅瓦葺となっている。 
東照宮が久能山、日光、仙波に造営されると、幕府から諸大名への造営の進言もあって譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社前後の東照宮が造られたといわれている。

川越はこれまでに何度か散策してきた。その度に発見があり認識を新たにしている。新河岸川の上流や古墳・貝塚にも興味があるので、川越はまた訪ねて見たいところである。(大河原記)