文京ふるさと歴史館から伝通院へ

文京区は由緒ある神社・仏閣や歴史的建造物が多く、また日本有数の文教地区としても知られています。
今回は後楽園駅を発着場所として、文京シビックセンターで文京区を一望し、文京ふるさと歴史館でその文化の一端を学び、そして徳川家ゆかりの伝通院を訪ねるコースを散策しました。
1.月日  平成29年5月20日(土)
2.集合  9:00 所沢駅2階改札内
3.行程
所沢駅9:16⇒9:46池袋駅⇒9:59後楽園駅
(9;00に全員集合の場合は、所沢駅9:04⇒9:28池袋駅⇒9:42後楽園駅)
後楽園駅→礫川公園[10]→(2)東京都戦没者霊園[10]→<春日局像>→(10)文京シビックセンター🚻[25]→(15)文京ふるさと歴史館🚻[30]→<炭団坂、樋口一葉旧居跡>→(15)12:00清和公園・昼食[30]→(10)源覚寺🚻[20]→<善光寺、慈眼寺、ムクの木、幸田邸>→(20)伝通院・処静院跡🚻[30]→<萩の舎跡>→(20)北野神社(牛天神)🚻[20]→(15)小石川大神宮[5]→(10)後楽園駅
〇徒歩時間は約2時間    解散は15:00頃
《 →( )は徒歩時間、 [ ]は見学時間、 <>は通過場所 》
4.費用  : 交通費 所沢⇔後楽園 往復 1,020円
5.出席者 : 12名
◆礫川公園
【ハンカチの木】
【ハゼの木】
昔小石川一帯には小石(礫)が溜まる細い川が幾条も流れ込んでいたので、小石川村と名付けられた。小石川台地の東端となるこの辺りは、戦前は軍用地であったが、戦後都営住宅、中央大学、東京都戦没者霊園、公園用地に分割され、昭和32年に礫川公園と名付けられたこの公園が造成された。
公園のシンボルとなっているカスケードは、高さ10mに及び、イタリア・ルネッサンス様式を参考にした垂直に立つ鉄平石貼りの壁面、水を吹き出すブロンズの獅子や羊の彫刻などが、西欧の雰囲気を放っている。
園内には、サトーハチローゆかりのハゼノキや幸田家ゆかりのハンカチノキがある。
◆東京都戦没者霊園
太平洋戦争における16万余の東京都関連戦没者の慰霊と都民の平和への願いを込めて昭和35年に建立され、昭和63年に相田武文氏設計で全面改修された。
広場正面に池(水盤)を配置し、池の中に高さ3.4mの人工滝を設け、滝を背景に当時の鈴木俊一都知事の書による「鎮魂」を刻んだ碑、その前方に山本健吉氏による碑文がある。
入口近くに、太平洋戦争における地域別戦没者一蘭図の銘板がある。
◆春日局像(写真:右)
文京区春日の地名は、春日局が三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し、昔は春日殿町と呼ばれていた。湯島に春日局の菩提寺麟祥院があるなど、文京区は春日局と歴史的に深い縁がある。昭和64年のNHK大河ドラマ「春日局」を契機に、平成元年に春日局像が建立された。
◆文京シビックセンター(写真:左)
区役所、議場、大・小のホール、高齢者や子育て支援のための区民施設、展望ラウンジ、レストラン・カフェなどよりなる区の総合施設である。
展望ラウンジは、文京区内の小石川植物園、東京大学、伝通院などや、スカイツリー、新宿副都心、また富士山、筑波山まで見渡せる。
◆文京ふるさと歴史館(写真:右)
文京区本郷にある歴史博物館で、平成3年に開設され、主に文京区周辺の文化財を公開している。
**以下は歴史観インフォメーションより**
文京区は弥生式土器命名の土地として知られる通り、古くからの豊かな歴史を持っています。江戸時代には、武家地、寺社地、町屋などが発展し、独特の産業や文化を形づくってきました。明治時代には、東京大学をはじめとする多くの学校がつくられ、さらに森鴎外や樋口一葉など著名な文人たちが活動の拠点とし、文教のまちの礎を築きました。
文京ふるさと歴史館では、文京区の歴史や文化財をあらゆる世代の方に伝え、触れてもらい、郷土に対する愛着や関心を深めるお手伝いをいたします。
◆炭団坂
本郷台地より菊坂下に下る急な坂。名前の由来は、ここに炭団などを商売する者が多かったからとか、切り立った急な坂で転げ落ちるものが居たからとか、などの説がある。現在は、53段の階段坂となっている。
坂上には、かって坪内逍遥が住み、またその後そこが松山藩の寄宿舎となり、正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子などが青春時代を過ごした。
◆本郷菊坂界隈の風景
◆樋口一葉旧居跡
一葉はこの地で18~21歳の2年11ケ月、洗い張りや針仕事などの内職をして母と妹の3人で貧しい生活をしていた。またここから安藤坂にあった歌塾萩の舎に通っていた。旧居跡の井戸は一葉も使っていたそうである。
**静かな住宅地なので静かに見学**
突き当りの階段を上がった所に「金田一京助・春彦旧居跡」の銘板がある。
◆清和公園
戦前から遊び場として利用されていたが、戦災で荒廃していた。昭和26年に近隣住民の署名運動により公園として新たに開園し、昭和57年に改修した。
早春から晩春まで、河津桜、染井吉野、八重桜と3度の花見が楽しめる。
◆源覚寺(こんにゃく閻魔)
寛永元年(1962)創建の浄土宗寺院で、正面にこんにゃく閻魔で有名な閻魔堂がある。高さ1mの閻魔像の右目が黄濁しているが、これには以下の伝説がある。
宝暦年間(1751~64)に1人の老婆が眼病を患い、閻魔大王に21日間の祈願をしたところ、満願の日に眼が治った。これは閻魔大王が自分の右目を老婆に授けたからと云われ、老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを断ち、それを供え続けたと云う。以来眼病治療の閻魔様として人々の信仰を集め、門前は大いに賑わったと云う。境内には、戦争をはさんで太平洋を一周して里帰りした「汎太平洋の鐘」と呼ばれる梵鐘がある。
◆善光寺
創建は慶長7年(1602)で、本尊は於大の方(家康生母)の守り本尊であった阿弥陀如来。江戸時代は伝通院の塔頭とし緑受院と称し、明治17年に信州善光寺の分院となり善光寺と改称した。寺前の道は善光寺坂と呼ばれている。
善光寺の石塀には、芝居茶屋などの店名や人名が彫ってあり、賑やかなりし往時の雰囲気を伝えている。

◆慈眼院(沢蔵司稲荷)
元和元年(1620)創建の伝通院塔頭で、境内に沢蔵司稲荷がある。沢蔵司は伝通院学寮にいた修行僧であったが、僅か3年で宗義を極め、或る日学寮長の夢枕に立ち、「自分の素性は千代田城内の稲荷大明神である。勉学の希望も叶ったので元の神に戻るが、長く伝通院を守護し恩に報いる」と告げた。そこで伝通院住職はこの境内に沢蔵司稲荷を祀って守護神とした。
◆ムクの木、幸田邸
善光寺坂に樹齢400年位で 高さ13mの椋の木がる。当初ここは伝通院の境内であったが、明治維新後各塔頭寺院が独立するなどによる境内縮小に伴い、伝通院から分離された。然しこの木は沢蔵司の魂が宿る神木とされ、大正時代の道路整備でも道を二股にして、木を避け両側に道路が作られた。
この木の北側に、幸田露伴が昭和20年まで18年間住んだ蝸牛庵があった。戦災で焼失した後、次女の幸田文が家を建て、孫の青木玉に引き継がれた。
◆伝通院
正式名は無量山傳通院寿経寺。慶長7年(1602)徳川家康の生母於大の方が京都伏見城で死去し、家康は当初芝の増上寺に埋葬するつもりであったが、増上寺国師の言上を受け、この地に寿経寺を移転し堂宇を建て、於大の方の法名「傳通院殿」にちなんで院号を傳通院とした。
江戸時代には、増上寺、上野寛永寺と並んで江戸の三霊山と称され、多くの堂塔や学寮を有する威容を誇っていた。また檀林(仏教学問所)として1,000人余の学僧が修行をしていたと云われる。
【左:於大の方 右:千姫】
然し明治維新の廃仏毀釈運動で規模が小さくなり、更に米軍空襲で本堂、墓を残して全て焼失し、将軍家菩提所としてのかっての面影は完全に消え去った。
現在の本堂は昭和63年、山門は平成24年に再建されたものである。
明治時代になり墓地が一般に開放され、庶民の墓も建てられるようになった。
埋葬されている著名人を以下に例示する。
・伝通院(家康生母)・千姫(秀忠長女)・初姫(秀忠四女)・亀松(家光次男)・鷹司孝子(家光正室)
・清河八郎(浪士組創設者) ・佐藤春夫(詩人・作家)・高畠達四郎(洋画家)・橋本明治(日本画家)柴田錬三郎(作家)
◆処静院跡
伝通院山門の脇に処静院跡の説明板がある。幕末の文久3年(1863)ここで新選組の前身となる浪士組が結成され、清河八郎、山岡鉄舟、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨等250人が集まった。
当時の処静院住職は尊王憂国の僧であったため、浪士組結成の堂宇を貸したようであるが、後に佐幕派武士により暗殺され、処静院は廃された。 
◆安藤坂
伝通院から真っ直ぐに下る長い坂が安藤坂である。坂の西側に紀州の安藤飛騨守の上屋敷があったことに因む。昔は坂下辺りは入江で漁師が網を干したこと、また江戸時代に御鷹係の組屋敷があり鳥網を干したことなどから「網干坂」とも呼ばれた。
また九段構えの急坂だったので、「九段坂」とも呼ばれたが、明治42年に路面電車を通すためゆるやかにされた、
◆萩の舎跡
安藤坂の途中に萩の舎跡の説明板がある。萩の舎は中島歌子が塾主となって開いた歌塾。歌子は水戸藩士であった夫が天狗党に加わり獄死したため、旅人宿である江戸の実家池田屋に戻り、その後実家の隣に歌塾を開いた。萩の名は実家の庭に咲く萩に由来する。主に上・中流層の夫人に教え、門弟1,000余人とも云われたが、明治36年歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
樋口一葉は14歳の時に入門し、18歳の時に内弟子になり寄宿したとこともある。
◆北野神社(牛天神)
元歴元年(1184)源頼朝によって創建されたと伝えられ、祭神は菅原道真である。
源頼朝が東国経営(平定)に赴く時、小石川の入江の松に船をつなぎ波風が鎮まるのを待つ間、夢に菅神(道真)が牛に乗って現われ二つの慶事があると告げた。お告の通り、長男頼家が生まれ、平家を西に追うことができた。頼朝は喜び、ここに北野神社を造営した。また頼朝が夢から覚めると、菅神が立っていた跡に牛の形をした石があり、この石は現在社殿の前に置かれている。
境内にある太田神社・高木神社は、芸能上達、開運招福のご利益があるとされ、人々の信仰が厚く、関東大震災ころまでは、未明から深夜まで参拝の人で賑わい、歌舞伎、新劇人などの名のある役者がたびたび参拝に訪れたとのことである。
また境内には門下生が建てた中島歌子の歌碑がる。
◆小石川大神宮
伊勢神宮の遷宮に多大貢献をし、神宮崇敬者総代となった佐々木勝造の提唱により、昭和41年に創建さえた。伊勢神宮より特別神璽(別大麻)を奉戴し、東京における伊勢神宮の遥宮(とうのみや)として位置付けられていると云う。
佐々木ビルの通路を通り抜ける形になっているが、このビルは神宮経営の経済基盤とすべく建てられたようである。

**竹茂初子さんが大阪に転居されるため、都合のつく人達だけで「清元」に於いて送別会を行った。

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