三鷹から吉祥寺 文学散歩と井の頭公園

太宰治ゆかりの場所が点在する三鷹駅周辺を文学散歩し、その後井の頭恩賜公園に立ち寄りました。
※文学散歩は「みたか観光ガイド協会」の方にガイドをして頂きました。
1.集合: 9:00 所沢駅2階改札内 
2.行程:
9:09  9:12 9:17    9:29 9:35  9:45
所沢駅 ⇒ 東村山駅 ⇒  国分寺駅 ⇒ 三鷹駅 
太宰治の仕事部屋跡→太宰治文学サロン→風の散歩道(玉鹿石)→太宰治旧居跡→黒門→井の頭弁財天→井の頭恩賜公園(自然文化園)→吉祥寺駅
※歩行約2時間 
3.費用: 交通費 所沢⇒三鷹 片道 371円
       吉祥寺⇒所沢 片道 371円
     井の頭自然文化園 200円(65歳以上)
4.  出席者: 15名
気温は高いものの朝からどんよりと曇った空模様だった。予報によると昼頃に前線が通過するため一時的に雨が降りその後は北風に変わり寒くなるという。
暖かいのに冬支度で出かけた。
◇ 地名「三鷹」の由来
家康が江戸に居城を構え、慶長8年(1603年)に幕府を創設し天下を掌握した。その後は泰平の世が続き、五日市街道や玉川上水などが開通すると、新田開発も進歩した。現在の三鷹市辺も江戸府内百万人の蔬菜生産地として開拓されたが、お鷹場としても使用された。明治22年(1889年)4月1日を期して市町村制が施行される時、お鷹場であった世田谷領・府中領・多摩郡野方領の十か村を併合して一村を誕生させることになり、「三鷹村」の名が創出された。
◇ 太宰治
1909年(明治42年)-1948年(昭和23年) 青森県金木村(現・五所川原市金木町)生れ。本名は津島修治。東大仏文科中退。在学中、非合法運動に関係するが、脱落。酒場の女性と鎌倉の小動崎で心中をはかり、ひとり助かる。1935(昭和10)年、「逆行」が、第1回芥川賞の次席となり、翌年、第一創作集『晩年』を刊行。この頃、パビナール中毒に悩む。1939年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚、平静をえて「富嶽百景」など多くの佳作を書く。戦後、『斜陽』などで流行作家となるが、『人間失格』を残し愛人山崎富栄と玉川上水で6月13日に入水自殺。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。太宰の出身地・金木でも桜桃忌の行事を行っていたが「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
文学散歩と云いながら、ガイドの話から伺えるのは、その殆どが太宰治の足跡コースのようだ。
◇陸橋(跨線橋)
昭和4年に竣工した」当時のままの姿を留める唯一のスポットだそうだ。
ここで田村茂氏が撮影した太宰治の黒マント姿で空を見つめている写真や階段を下りる写真はよく知られている。
◇中鉢家跡
太宰治が疎開先金木町から三鷹に帰った昭和21年11月から3カ月間2階を仕事部屋として借りていたところで、作品「朝」に登場する。ここでは、「メリークリスマス」や「ヴィヨンの妻」を執筆した。建物は平成9年(1997)まで現存していた。
◇禅林寺通り
この道の突き当りに禅林寺があり太宰治の墓と森鴎外の墓がある。しかし、今回のガイドは寺までは行かないと云う。
◇文学碑
町中にいくつかの文学碑があった。
左から三木露風の「赤とんぼ」、太宰治の「斜陽」、武者小路実篤の「人間万歳」
◇ 太宰治文学サロン
「太宰が生きたまち三鷹」の拠点となり、資料展示の場、情報交流と発信の場そして市民の交流の場となっている。太宰が通った「伊勢元酒店」の跡地に2008年(平成20年)開設された。
◇小料理屋「千草」
作家仲間、編集者との打ち合わせの場所でもあった小料理屋。
2階を仕事部屋にもしていた。
太宰治の行方不明後は捜索本部となり、遺体発見後は検死場所となった。
主人の鶴巻幸之助さんは楼桃忌の御世話をしていた。


◇ 風の散歩道

三鷹駅南口から井の頭公園の手前の万助橋に至る散歩道。約800メートル。歩道の石畳や、ガス灯風の照明の雰囲気が楽しい。バス停の標識にはスタジオジブリデザインのモチーフ(山猫)が使われている。
◇ 玉鹿石
太宰治と山崎富栄さんが入水した場所の近くに設置。太宰治は玉川上水を散歩する時、滝のような流れだったこの場所が好きだった。よく編集者や作家仲間を連れてきていた場所。故郷金木町(現:五所川原市)産の玉鹿石が置かれている。
◇ 山本有三記念館
小説「路傍の石」で知られる山本有三が昭和11年(1936)から昭和21年(1946)まで住んでいた家。平成8年(1996)より記念館として公開。建物は平成6年(1994)に三鷹市の文化財に指定されている。
本年3月末日まで工事のため休館中であった。
◇ 井の頭弁財天
起源は、伝承によれば、平安時代中期に六孫王経基が最澄(伝教大師)作の弁財天女像を安置するためこの地に建てた堂であるとされる。弁財天の縁起には、その後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられている。その後、鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天が焼失した。数百年の間放置された後、江戸幕府三代将軍徳川家光により弁財天が再建された。江戸時代には、神田上水の水源の水神として、また芸能の神として信仰を集め、江戸町人の行楽地としても賑わっていた。境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠、宇賀神像などが残っている。
 ◇ 井の頭恩賜公園
井の頭池は豊かな湧水を誇っている。園内武蔵野市側の御殿山遺跡からは縄文時代の竪穴式住居遺跡や、旧石器時代の石器や、敷石住居も出土することから、井の頭池は古くから人間の生活に不可欠な水源となってきたことが窺える。江戸時代の初頭に神田川が改修されて江戸に神田上水が引かれたため、江戸市民にとって井の頭池が水がめとなった。井の頭池と一帯の林が幕府御用林として保護されていたが、明治維新後は東京府が買収した。1889年(明治22年) - 宮内省(現在の宮内庁)御用林となる。1913年(大正2年)12月 - 66,245坪を帝室御料地から東京市に下賜。1917年(大正6年)5月1日 - 恩賜公園として一般公開。
◇井の頭自然文化園(動物園)                             
【ツシマヤマネコ】
                                                    【担当: 3班】