杉並区今川町界隈散策

1.月日:  平成30年4月11日(水)
2.集合:  9:00 所沢駅2階改札内
3.行程:
所沢駅9:05 ⇒ 9:28井荻駅
井荻駅 → <中瀬天祖神社> → 妙正寺公園 → 妙正寺 →桃井原っぱ公園 → 観泉寺 → <今川町> → 西山家穀櫃 → <井草遺跡> → 12:20切通し公園13:00 → 井草八幡宮 → 善福寺公園  → 14:20上石神井駅
4.費用: 交通費 所沢⇒井荻   270円
          上石神井⇒所沢 270円
[説明資料】
◆中瀬天祖神社
井荻駅から約15分,妙正寺公園の手前にある小さい神社です。年代は不詳ですが、妙正寺が十羅刹堂として創建したものです。十羅刹とは、もと人を食う悪魔でしたが後に法華経の守護神となった十人の羅刹女のことで、そのことより日蓮宗の妙正寺がここに祀ったものと考えられています。
維新後の神仏分離令により天祖神社と改称され、祭神は天祖(天照大神)他三神です。
◆妙正寺公園
妙正寺川の水源となる妙正寺池を中心とした小公園で、井草川の流れに、この妙正寺池の湧水を合わせて妙正寺川となって下りますが、近年は湧水量が少なくなり、実際には近くに掘った井戸から地下水を汲み上げて池の水をまかなっているそうです。
井草川は切通し公園を水源とし、妙正寺公園に至る約3.5㎞の川で、流域には旧石器時代や縄文時代など26箇所もの遺跡があり、古代から人々の生活の場となっていたそうです。周辺の宅地化により、昭和56年に全ての流路が暗渠となり、暗渠の上は井草川緑道(遊歩道)となっています。
妙正寺川は、公園を出てから鷺宮駅、沼袋駅、哲学堂、中井駅の近くを曲折しながら流れ、下落合で神田川と合流する約9.5㎞の川です。妙正寺川沿いには桜が点在していますが、見所は上流部の妙正寺公園付近と哲学堂公園当りとなっています。
◆妙正寺
【妙正寺山門】
十界諸尊を本尊とする日蓮宗の寺で、1352年に下総の日祐上人が妙正寺池のほとりに堂を建て、天照大神、八幡大神、春日大神など三十番神を勧進して奉ったのが始まりと言われています。1646年の社殿再建直後に、徳川三代将軍家光が鷹狩の折、神前に武運長久を祈願し、葵の紋幕と朱印地五石と紋幕を寄進してから、御朱印寺として有名になりました。
【妙正寺本堂】
昭和6年に改築された本堂にある鬼子母神像は「生毛鬼子母神」と称され、江戸城大奥から移されたもので、安産の神として親しまれてきたそうです。
◆桃井原っぱ公園
戦前の中島飛行機東京(荻窪)工場の跡地に開園された、広い芝生が象徴的な杉並区立の公園です。
中島飛行機は、大正6年から昭和20年まで存在した日本最大規模の航空機・航空エンジンメーカで、荻窪工場では零銭など戦闘機のエンジンが生産されていました。
戦後荻窪工場跡地には、富士精密工業など変遷を経て、昭和41年に日産自動車荻窪工場が開設されました。その日産自動車の群馬県への移転と共に工場跡地は売却の対象となり、日産自動車が公共性の高い跡地利用を望んだことより、跡地の半分近くの4ヘクタールが防災公園として整備されました。
平常時は公園として利用され、災害時には避難拠点として活用されるため、防災用設備が常備され、災害救助用ヘリコプターの離着陸場として利用されることになっています。
◆石仏
観泉寺に向かう参道にある。区画整理などで近在から集められた石仏のようだ。
◆ 観泉寺
【観泉寺本堂】
当寺は宝珠山観泉寺と云い本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として知られています。寺伝によれば、慶長2年(1597)今の下井草に中野にある成願寺の住職開山鉄叟雄さく和尚が創建し、当初は観音寺と称していました。
【右は今川氏真公の墓/左は氏真公の妻の墓】
戦国時代、織田信長に敗れた今川義元の子氏真は徳川家康の庇護を受け、京で暮し江戸で没しました。氏真の嫡孫今川13代直房は高家として江戸幕府に仕え、将軍家光の命により京に上がり、東照大権現の宮号宣下につき朝廷との交渉で功績を上げました。その功により1645年井草村など三か村500石の加増を受け当地一帯の領主となり、寺号を観泉寺と改め今川家の菩提寺としました。
直房は市ヶ谷にあった萬昌院が移転するに際し、祖父今川氏真の墓を観泉寺に写し、氏真を観泉寺の開基としました。氏真の弟長得が開いた萬昌院は現在萬昌院功運寺と称し中井駅近くにあり、ここは今川家のもう一つの菩提寺として長得他の今川家の墓がある他、今川家と遠縁の吉良上野介義央や林芙美子の墓もあります。
江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点であり、領地からの年貢の取立や裁判も行われました。今川氏の家格を支えるため、他村の2倍の酷税に農民の生活は苦しかったそうです。本堂前の枝垂桜も有名ですが、今はかなりの老木です。
写真を提供してくださった大河原功氏は午後用事があり、ここから上井草駅に向かった。「千川上水忌要の碑」以降の記事及び写真は氏が駅に向かう途中で作成したものです。
◆今川町
今川町は江戸時代の武蔵国多摩郡上井草村の一部にあたり、幕末までは今川氏の領地でした。その後明治22年に井荻村の一部となり、大正15年井荻村は井荻町となりました。更に昭和7年井荻町は東京市に編入され杉並区の一部となりましたが、この際今川氏ゆかりの寺院である観泉寺周辺に今川町と云う町名が生まれました。
今回観泉寺から井草八幡へ向かう時にこの今川町を通りますが、今川氏の時代を偲ばせるような街並みは現在見当たりません。
◆西山家穀櫃
底面が3×1.5m、高さが1.6mの小屋状の建物で、江戸時代飢饉に備えて穀物を貯えるため、古くからの農家である西山家の祖先が天保15年(1844)年に作った穀櫃です。天明の飢饉以降、幕府は各地に穀櫃や穀蔵を作らせ、主に稗を貯えさせる政策をとり、この穀櫃もそうした状況で作られたと考えられています。
杉並区指定の有形文化財ですが、今は残念ながら塀越しに垣間見るだけです。
◆井草遺跡
杉並区上井草一帯には縄文時代草創期(約9,000年前)の遺跡が広がっており、井草遺跡もその一つで、穀櫃の近くに説明板があります。昭和15年の発掘調査で出土した土器は「井草式」と言われ、日本最古の縄文土器の一つとして知られているそうです。
◆切通し公園
井草川の源流とされる斜面に作られた小さな公園で、かっては斜面の到る所から水が湧き、その流れが井草川の谷を刻み、いわば自然の凝り通し地形となっていたそうです。法令で埋め立てられ、その地形は失われましたが、かっての面影を偲んで「切通し公園」と命名されたそうです。小さい公園ですがベンチもあり、昼食場所とする予定です。 
◆井草八幡宮
青梅街道、早稲田通り沿いにある都内で有数の広大な社叢を誇る神社です。
当初は春日神を祀っていましたが、源頼朝が奥州討伐の折に立ち寄り戦勝祈願をして以来、八幡大神を祀るようになったと言われています。
頼朝宿営時、飲用水を求め自らも弓筈で各所を掘りましたが、折からの干ばつで水の出が遅かったことより、当地は遅野井(おそのい)と呼ばれ、当社も明治初期までは遅野井八幡宮と呼ばれていました。太田道灌が石神井城豊島氏を攻めるに当り戦勝祈願をしたとも伝えられ、徳川家光は社殿を造営させ朱印領六石を寄進しています。
境内には源頼朝が奥州平定後に手植えしたと伝えられる松があり、都の天然記念物でしたが、昭和48年に枯れてしまい、現在は2代目の松が植えられています。
八幡宮では5年毎に、鎌倉の昔を偲ぶ流鏑馬神事が行われており、前回は2016年10月に行われました。
八幡宮には、大鳥居があり流鏑馬神事の馬場となる東参道と、大灯篭がある北側参道がありますが、今回は北側から入ります。
◆善福寺公園
善福寺池を中心とした公園で、善福寺川の水源にもなっている池の水は、かっては神田上水の補助水源として利用されるほど澄んでいました。湧水量も多く、井之頭池、三宝寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られていました。
池は上の池と下の池に分かれ、両方で78,600㎡の公園の約半分を占めています。
上の池はボート場もある広々とした明るい池です。下の池は半分近くが葦などの水生植物で覆われていますが、ピンク系睡蓮が群生しています。
                                  担当: 2班
写真提供:大河原功氏
◆千川上水忌要の碑
時代と共に昔の良き面影が消えてゆくのが寂しい。
元禄9年といえば三富新田が開拓された年。黙って通り過ぎることができなかった。
◆在りし日の千川上水を伝える。(井草中学校の片隅に於いて)
◆上井草駅前のガンダム像