新選組・土方歳三が生まれ育った地を巡る

かつて日野には新選組副長土方歳三の出身地・石田村があり、六番組隊長井上源三郎が生まれ育った日野宿がありました。幕末、土方歳三・井上源三郎・近藤勇・沖田総司らが集った日野を巡ります。
1.月日: 平成30年5月12日(土)
2.集合: 9:00 所沢駅2階改札内
3.行程:
   9:07        9:10 / 9:14       9:25 / 9:31       9:41
所沢駅 ⇒ 東村山駅 ⇒ 国分寺駅 ⇒ 日野駅 → 八坂神社 → 井上源三郎資料館 → 日野宿本陣 → 日野宿交流館 → スポーツ公園(昼食)→ 万願寺一里塚 → 土方歳三資料館 → 石田(セキデン)寺 → 京王 高幡不動駅(解散)→ 高幡不動尊 → モノレール高幡不動駅 → 多摩川上水 → 小川 → 東村山 → 所沢
※歩行約3.5時間、約6km  解散は14時30分頃
4.費用: 交通費 所沢駅⇒ 日野駅 371円
       高幡不動駅⇒(モノレール多摩川上水経由)所沢駅 866円
            入場料 土方歳三資料館500円
          日野本陣200円
          井上源三郎資料館500円
5. 昼食: 各自持参
6.出席者: 15名
7.主な訪問先:
◆八坂神社(通称:天王さま)
牛頭天王像を勧請し祠を建てたのが八坂神社の始まり。600年以上の歴史を持つ神社。本殿は寛政12年(1800)に建造されたもので、成功な彫刻が組み込まれている。
牛頭天王はインドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神。八坂神社に改名されるまでは「祇園社」といわれた。佐藤彦五郎が万延元年(1860)に奉納した「祇園社」の扁額も残されている。
鳥居の「八坂社」の扁額は、明治7年(1874)、佐藤彦五郎の願いによって有栖川宮二品熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が書かれたもの。
◆井上源三郎資料館
新選組六番隊隊長の井上源三郎と、その兄で八王子千人同心だった松五郎の子孫が運営する資料館。生家の土蔵を改装した館内には、源三郎の天然理心流免許や木刀、近藤勇が松五郎に送った刀「大和守源秀國」のほか、源三郎や土方歳三の書簡など新選組ゆかりの資料や、松五郎の「上洛日記」など千人同心関連の資料も展示されている。
※井上源三郎
文久2(1862)年2月、浪士組に近藤・土方らと参加。文久3年(1863)9月の芹沢鴨一派の粛清後は副長助勤となり、以後新選組の幹部であり続ける。同郷・同門の局長近藤や副長土方をよく補佐し、お互いに絶大な信頼で結ばれていた。
池田屋事件では土方隊支隊を指揮し、近藤隊が斬り込んだ知らせを受けると十人の部下と池田屋に入る。慶応元年(1865)6月の組織再編成で六番隊組長に任じられる。
慶応3年(1867)6月、新選組総員は幕府直参に取り立てられるが、その際源三郎は副長助勤として七十俵三人扶持を与えられる。
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、淀まで退却。1月5日、淀千両松で新選組は官軍と激戦(淀千両松の戦い)。その戦いの最中、源三郎は銃弾を腹部に受け戦死。享年40歳。
※天然理心流
創始は寛政元年(1789)頃、三代目周助は小山(現町田)、四代目勇が石原(現調布)と多摩地域と縁が深く、名主や豪農、八王子千人同心を中心に農民の間でも習われていた。
八坂神社に安政元年(1858)に奉納された剣術額には、井上源三郎、近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてある。
◆日野宿本陣
日野宿の本陣(元々は脇本陣)、日野本郷の名主屋敷。佐藤彦五郎が建てた現在の主屋は文久3年(1863)に上棟した、都内に唯一残る本陣建築で、太い大黒柱や式台付玄関などに風格が漂っている。かつては街道に面して天然理心流道場があり、近藤勇や土方歳三、井上源三郎などが稽古に励んだ。
◆日野交流館
日野宿観光の拠点となる施設。日野宿、甲州道中、真選組などに関する地域の資料が展示されている。
◆万願寺一里塚
慶長年間(1596~1615)、甲州街道が開かれた折に造られた江戸日本橋から九里目に当る塚。塚は旅人にとって距離の目安になり、夏場は大きなきで木陰ができる場所でもあった。
◆土方歳三資料館
歳三の生家跡で子孫が運営し、住居の一角に設けられた資料館。歳三が八月十八日の政変などで使用した鉢金や、池田屋事件で使用したと伝わる鎖帷子、直筆の書簡、若き日に行商した「石田散薬(骨折・打身の秘伝薬)」の製造・販売道具など、ゆかりの遺品70点余りが展示されている。
※土方歳三
天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。20歳を過ぎた頃より武術(天然理心流)を志して、実家秘伝の「石田散薬」を行商
文久3年(1863)2月、幕府の浪士組募集に、近藤勇らと共に参加上洛し、近藤を助けて新選組を組織した。京都市中見回りを行い、西国浪士たちを震撼させたが、時代は大政奉還、王政復古へ。
慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いに敗れ、近藤勇が流山で捕えられ板橋で斬首された後、真選組の生き残りを率いた土方歳三は、宇都宮、会津と転戦し、仙台で榎本武揚の艦隊で箱館五稜郭に入城する。明治2年(1869)5月11日、単騎、政府軍陣地に切り込みをかけ、銃弾を受けて死亡。場所は一本木で碑石(土方歳三最後之地)が建っている。
死を覚悟していた歳三は、市村鉄之助を日野に使いに出し遺品(毛髪)と辞世の歌を託した。「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん」
享年35歳、近藤勇の死後1年であった。
◆石田寺(せきでんじ)
境内には、樹齢400年以上といわれるカヤの木があり、その木陰に明治100年を記念して、歳三の親代わりでもある兄、喜六の曾孫にあたる土方康氏によって建立された土方歳三顕彰碑がある。墓地のほとんどが土方姓で、歳三の命日は5月11日。
◆高幡不動尊金剛寺
室町時代の作である「仁王門」や、本尊の不動明王を安置した「不動堂」など、歴史的な建造物や文化財が数多くある。関東三大不動の一つ。
「不動堂」は東京都最古の文化財建造物として、国の重要文化財に指定されている。境内には土方歳三の銅像や記念碑が建てられている。
※関東三大不動
「高幡山金剛寺」、「成田山新勝寺」は古くから数えられていたが、3つ目はいくつかの説があり、埼玉県加須市の「不動ヶ岡不動尊 總願寺」、埼玉県飯能市の「高山不動尊 常楽院」、神奈川県伊勢原市の「雨降山 大山寺」を指すことが多い。
【担当:3班資料より】