入間川河岸段丘に開けた笹井・根岸・広瀬エリアの名所旧跡と広瀬神社・白髭神社の例大祭を見学

今回の歴史散策は、狭山市内を流れる入間川左岸の河岸段丘に開けた笹井・根岸・広瀬エリアの名所旧跡、そして広瀬神社・白髭神社では例大祭を見学します。
【狭山市駅前】
1.日時 h30.10.21(日)
2.集合 狭山市駅改札口前 9:40 集合
3.コース 約4km(昼食は白鬚神社)            
                 9:50 発       10:02       10:10‐10:50        11:05‐11:20 
(市循環水野コース)狭山駅西口→上広瀬下車→ 広瀬神社 → 富士塚・清水宗徳の墓 
       11:40-12:00                      12:11 発                    12:17                      12:20-13:10               13:20-13:35 
→日光脇往還・根岸宿→根岸新道バス停→白鬚神社下車→ 白鬚神社(昼食)→ 笹井ダム
    13:45-14:00                                       14:33 発                      14:43                   14:45              15:00 頃 
→笹井観音堂 →(滝不動尊)→根岸新道バス停→福祉会館下車→徳林寺→狭山市駅西口
*トイレは、広瀬神社、白髭神社にあります。
4.交通費 
電車:所沢駅-狭山市駅(往復)210*2=420 円 
バス:駅西口(市循環バス)-上広瀬=100 円、根岸新道-白鬚神社=100 円 根岸新道(西武バス)-福祉会館=180 円 
5.昼食 各自持参
6.出席者: 11名

名所と景観
■広瀬神社 
延喜式神明帳に記録されている武蔵国四十四座の一つで、嘉祥 3 年 (850)には官社に列せられた武蔵国の中でも数少ない格式高い神社です。
主祭神は若宇迦能売命(わかうかのめのみこと)で水の守り神であ り、風雨の調和による穏やかな世の中、豊かな実りを守る神である。 
注)若宇迦能売命は『古事記』では、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と表記されている須佐之男命の系譜において登場し、櫛名田比売の次に娶った神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれている。
この神社の創立は、大和武尊という社伝がある。それは大和武尊が御 東征の帰途に当地を通過した際、地形が大和の広瀬に似ていることから 広瀬神社を勧請し、地名も広瀬と命名したというものである。この伝承 に真実性が感じられる。するとやはり大和武尊は、この地に古代から通る入間路を利用されたものと推定 され、入間路が要因となって広瀬神社が創立されたものかもしれない。 
・県指定天然記念物 大欅二本(ご神木
1号木樹齢1000 年・目通り6.3m・高さ28m 
2号木樹齢900 年・目通り6.5m・高さ31m 
・市指定文化財 神輿一基(秋季例大祭神輿渡御10 月第 3土・日
【今日は秋季例大祭】
・不朽梅 
樹齢 400 年の梅の古木、清水宗徳翁を偲び、翁の俳号に因んで命名。境内には宗徳の功積を称えた 頌徳碑が建っている。
【不朽梅】
・名筆
 拝殿正面のご神号額は「明治の三筆」と称された野村素介のご染筆。  神輿庫に掛けられている「徳維新」の額は江戸末期の高名な書家・中沢雪城の揮毫。安政の句碑には、尊円流の教授で能書家として名高い梅沢台陽の書が刻まれている。 
【安政の句碑(梅沢台陽)】
■清水宗徳の墓(史跡) 
清水宗徳は、天保14 年(1843)に上広瀬村名主の子と して生れ、文久3 年(1863)に父の跡を継い で名主に。宗徳は明治 42 年(1908)65 歳で没した。 その間に時代の先駆者として市域の殖産興業に巨大な足跡を残した。 その事績の主なものを上げると、 
①養蚕業の近代化の尽力 
②川越鉄道の設立に尽力 
③入間川の水難防止のため川砂利事業起こし、東京に搬出 
④入間馬車鉄道の設立に努力し、二代目社長となる。 
⑤明治 12 年県議員、明治 23 年第一回衆議院議員に当選。政治家として も地域発展のために貢献した人物である。 
 清水宗徳の墓は入間馬車鉄道に用いた二本のレールの上に建てられています。宗徳の墓石に向かって左 側の石には「清水せき子刀自之墓」と刻まれた夫人の墓石があります。 

■日光脇往還(水富地区根岸)
 江戸時代、水富地区根岸を日光脇往還が南北に縦貫していた。根岸を通るこの街道は東照宮の火の番をする同心が、八王子と日光間を往復するための公道で、途中には宿場が設けられ、荷物などの継ぎ立てをする問屋も置かれた。根岸はその宿場の一つで、問屋役は久下家が務めた。継ぎ立てには馬や人足が必要であったが、根岸村は小村で伝馬不足のため、これを提供したのが笹井と広瀬の二か村であった。 街道名は日光脇往還(沿道では日光街道と呼ばれていた)のほかに、千人同心街道、日光火の番街道、 日光裏街道、八王子街道などとも呼ばれた。宿場は八王子~日光間に23 宿(拝島・箱根ヶ 崎・二本木・扇町屋・根岸・高萩・坂戸・高坂・松山・吹上・忍・新郷・川俣・館林・天明など)が 置かれた。
現在、明光寺参道入り口の反対側には往時問屋役を務めた久下家があり、 この辺りが昔日の面影を微かに残している。
【久下家】
■明光寺(高竹山) 
真言宗の寺院で、当山は応和 2年(962)明光上人の開祖に依る。本尊は地蔵菩薩。
本堂には、狭山市指定文化財の地蔵十王図(寺宝)が掲げられている。十王図は一般 には奪衣婆を一緒に描き 12 幅を組にするが、明光寺のものは、修羅の図を加え 13 幅になっている。
 大正 15 年、第 23 世住職盛範和上により武州高尾山から飯縄大権現を勧請した。 当時は大本山高尾山出張所になっており、奥多摩新四国第44番霊場となっている。

≪水に恵まれた自然豊かな地・笹井エリア≫
 明光寺の参道 狭山市の西に位置するこのエリア(笹井)は、地形が起伏に富んでいて古くから 湧水があり、「滝不動尊」は環境省のhpに埼玉県の代表的な湧水の一つと して掲載されている。 また、入間川の笹井ダムから灌漑用水として取水された水は「寝掘り用水」 といわれ、800mほどの石垣造りの風情を感じられるこの用水路には、放 流された鯉や小魚が気持ちよさそうに泳いでいる。都市河川観賞魚遊泳モ デル事業として清流と石垣の似合う街「寝掘」を目指しており、狭山市の 景観地 50 にも選定されている。

■笹井白鬚神社
創立年代は不詳。古くから笹井村の鎮守として崇拝されてきた。祭神は猿田彦命、武内宿禰。 創立は 不明だが、伝承によると、室町時代中期の文明 18 年(1468)に聖護院門跡の 道興准后が笹井観音堂を訪れた際に当社を礼拝し、イチョウの木をお手植えに なったが、明治 11 年(1878)の台風により倒れたため、現在は 2 代目の若木に代 わったという。
笹井は中世以前に開かれた集落(神社より 150mの所に奈良・平安時代の集 落跡発見)であると考えられるので、その創立もかなり古いと考えられている。 毎年四月と十月の祭礼日には市の無形文化財「笹井豊年足踊りが奉納されま す。笹井豊年足踊りは笛や鉦、太鼓の笹井囃に合わせて演者が仰向けになって 足を上げて舞う珍しい郷土芸能です。
残念ながら、秋季祭礼は先週の日曜日(10月14日)であった。みんなガッカリ!疲れがドーット出て来た!!
軒下を借りて昼食にした。
・空襲による焼け跡が残る神社
終戦も間近な昭和20 年5月20 日の夜、B29 が水富笹井地区に焼夷弾5000 発を捨てて去った。笹井の白 鬚神社の拝殿と社務所が焼失したが、本殿と奏上門は破風を焦がしただけで類焼を免れた。戦争の記憶を とどめようと、今も修理をせずそのまま残している。

■笹井観音堂 
『観音堂寺記』によると、開山は修験道の開祖役小角で、大宝 2年(702) に流れ落ちる滝の傍らに不動明王を祀り滝音山と号したという。 永久年間(1113~18)に円城寺の大僧正行尊が来訪し、この地が四神相応の地であるのを感じ、背負ってきた笈の中から十一面観音菩薩を取り 出してここに安置し、それ以後は観音堂としてその名を知られるように なったという。そのため行尊を中興開山と呼んでいる。
行尊来訪からおよそ 360 年を経た文明 18 年(1486)、今度は本山派の 京都聖護院門跡の道興准后が笹井観音堂を訪れ4~5日逗留している。 (廻国雑記)観音堂は京都聖護院末 28 院の一つで、道興准后の来訪を機に観音堂と聖護院との結びつきは強化された。天文21 年(1552)には、笹井観音堂は多摩郡青梅地方、高麗郡下の聖護院配下の寺の事務をまとめる『年行事職』という高い地位についている。江戸時代になると入間郡内の五か郷(宮寺・所沢・金子・入間川・奥富)が配下に追 加されている。
 道興は天台修験の総師として諸国を巡歴しているが、所沢の観音寺(新光寺)にも訪れ歌を残している。 「野遊びの さかなに山の いもそへて ほり求めたる 野老沢かな」

■滝不動尊 
本尊は石像浮き彫り不動明王立像
入間川左岸の段丘崖から湧き出る水が滝となって流れ落ちていたところにある。 この堂舎は『観音堂寺記』に、大宝 2年(702)、修験道の開祖・役小角(役行者の呼び名でも広く知られている)が当地を 訪れ、不動尊を彫刻し堂舎を建てて安置し、滝音山と名づけ霊場を開いたと伝え られ、笹井観音堂の旧地といわれている。修験者たちはこの滝に打たれて修行し たといわれている。
修験道は、すでに他界していた役小角を開祖とした。役小角は特殊な呪術を使う ことで名声を得た人物。しかし、当時の政治下では『まやかしの言葉で民を惑わす』として、文武 3年(699) に伊豆の島に流された。その後、役小角に関する多くの説話が平安時代に生れ、鎌倉時代になると役小角 は修験者の理想とされた。

■笹井ダム 
笹井ダムは農業用水確保のために造られた堰。笹井ダム周辺でメタセコイア、アケボノゾウの二つの化 石が発見されている。
・メタセコイア 
メタセコイアは大昔に絶滅されたと考えられていた杉の仲間。昭和 49 年12月、2人のPTA役員が 廃品回収の準備を終え、笹井ダムのほとりに腰をおろしていると河床に点々とした黒い、二抱えも三抱え もする大きな根のようなものを発見した。 専門家の調査により約200 万年前のメタセコイア(アケボノ杉)の化石と断定された。発掘された一株 は直径2m、年輪420 年を超え亜炭化していた。現在、今宿の遺跡公園に展示されている。
・アケボノゾウ 
メタセコイア発見の翌年、昭和50 年2 月、メタセコイア調査団の一人が入間川左岸の崖(滝が淵)に 手を触れながら歩いていたとき、粘土層に露出していた動物の化石らしいものが目に止まった。調査する と、約 200 万年前棲んでいたアケボノゾウの臼歯であることがわかった。その後、10 年間は地中に眠ら せ、昭和 60 年県立自然史博物館の手によって、アケボノゾウの骨格化石はほぼ完全な形で発掘された。

予定されていた徳林寺へは行きませんでした。
『資料内容はすべて狭山市史地誌編を参考とている』 (担当:2班)