赤坂界隈を歩く


赤坂地区は、宏大な赤坂御用地や青山霊園、そして近年開発されたアークヒルズ、東京ミッドタウン、赤坂サカスなど、話題に富む地域ですが、今回は、大まかに言えばこれらに囲まれた赤坂2~9丁目の、昔ながらの地味な赤坂の史跡を巡る散策です。
1.月日  平成31年2月7日(木)  (雨天予備日 2月8日)
2.集合  8:50 所沢駅2階改札内
3.行程
所沢駅8:58(準急) ⇒ 池袋駅 ⇒ 赤坂見附駅 
→ 赤坂不動尊 → <丹後坂> → <山脇学園> → 豊川稲荷東京別院 → 草月会館 → 高橋是清翁記念公園 → <薬研坂> → <三分坂> → 報土寺 → 勝海舟邸跡 → <赤坂教会> → 勝安房邸跡 → <南部坂> → 氷川神社 → 13:00檜町公園(昼食) → 乃木神社(乃木坂駅)
乃木坂 ⇒ 明治神宮前 ⇒ 所沢 
< >は通過場所   歩行:約2時間、約7km   解散は14時半頃
 4.費用 : 交通費 所沢   ⇒ 赤坂見附 540円
 乃木坂 ⇒ 所沢  540円 (下記経路共に同額)
 乃木坂⇒明治神宮前⇒所沢 :地下鉄、副都心線
 5.出席者:14名
◆赤坂地名由来
赤坂の地名の由来に関する諸説の中で有力な説として、この周辺が関東ローム層の赤土の坂であったことに由来するとの説、及び紀州徳川家中屋敷があった赤坂見附から四谷に上がる紀伊国坂の高台を赤根山と呼び、赤い染料をとる茜が群生しておりそこに上がる坂が赤坂と呼ばれたことに由来するとの説、などがある。
赤坂見附の辺りはかって一ツ木村と呼ばれていたが、やがて赤坂が地域一帯の総称となり、一ツ木は通りの名としてのみ残っている。
港区は昭和22年に旧赤坂区、麻布区、芝区が統合されたものであるが、赤坂地区とは赤坂地区総合支所の管轄下にある旧赤坂区の次の範囲を指す。
赤坂1~9丁目、元赤坂1・2丁目、北青山1~3丁目、南青山1~7丁目
赤阪は勝海舟ゆかりの地と謂われ、結婚当時一ツ木通りの隣のみすじ通りに住み、この地で蘭学塾を開いたが、今は説明板も設置されていない。 
◆赤坂不動尊威徳寺
聳え立つ威徳寺の堂内陵墓ビル一階の奥まった所に不動尊がある。
伝教大師が唐より帰国の途中、暴風雨で船が沈みそうになり海に沈めて祈願した御自作の不道明王を、越後出雲崎の漁師が拾い上げ、お堂を建て祀ったことが由来とされている。慶長5年(1600)住僧良治が赤坂一ツ木へ移転し開山、江戸時代には紀州徳川家の祈願寺となっていた。門前に紀州大納言御祈願所の石柱がある。
かって隣接して氷川神社があったが、8代将軍吉宗により赤坂氷川神社の現在地に移された。
◆丹後坂
中央に植栽のある石段坂で、坂名の由来は、この坂が開設された元禄初年(1688)頃、
この坂の東北側に米倉丹後守の屋敷があったことに因る。現在の赤坂4丁目はかって丹後町と呼ばれていたが、今は坂の名前にのみ丹後の名が残っている。
◆山脇学園
1903年牛込に創設された中高一貫の女子校。1935年に現在地に移転、近年建て替えられ外観も美しくなった。1950~2011年には短期大学が併設されていた。
中高・短大含めて卒業生に、北林谷栄、長谷川町子、朝丘雪路、沢たまき、貫地谷しほり等の名がある。
学園の横に学園が所有する国指定重要文化財の武家屋敷門がある。この門は江戸城大名小路(現在の丸の内東京中央郵便局付近)にあった幕府老中屋敷の表門で、文久2年(1862)の火災後、老中本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたと伝えられている。後に港区白金台の藤山愛一郎邸表門などを経て、平成28年に学園内に移築されたものである。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構の中でも、5万石以上の諸侯又は老中職に許された長屋門の形式を持つ唯一の遺構である。
◆虎屋赤坂店(本社)
室町時代に京都で創業し、後陽成天皇に和菓子を献上して以降、皇室御用達の製菓業となった。これまで約480年の歴史を持つ。明治時代になって東京に移った。
特に羊羹の製造販売で知られ、「とらやの羊羹」として広くその名を知られている。
◆豊川稲荷東京別院
正式名を豊川閣妙厳寺と称する曹洞宗の寺院であり、祀っているのは豊川荼枳尼真天である。荼枳尼の起源はインドで、所謂女夜叉・羅殺女である。自在の通力で人の死を6ケ月前に知り臨終を待ってその心臓を食べると言われる。
日本では狐を神使とする稲荷信仰と習合し、白い狐に跨る美しい天女の姿となり、
荼枳尼天と呼ばれるようになり、自在の通力で目的を達すると云うことで戦国時代には義元・信長・秀吉・家康など各地の武将が城鎮守稲荷として荼枳尼天を祀るようになった。近世になると伏見稲荷や豊川稲荷などが福徳神として信仰されるようになり、人を選ばず誰でも願望を成就させると云うことで、庶民の他、博徒や遊女達の信仰も集めた。祀っている荼枳尼天が狐に乗っていることから、妙厳寺ではなく豊川稲荷が通称として広まり、現在に至っている。
赤坂の豊川稲荷は当初大岡越前守忠相が邸内に豊川稲荷を分霊し祀っていたことに由来する。青山通りを挟んで現在地の向いが大岡家の屋敷となって以降も、分霊の奉祀は継続され、一般の参詣客にも公開していた。明治9年に一般参詣が禁じられ、大岡家は本尊を妙厳寺に返納したが、明治20年に本山が現在地に新しくお堂を作り、本山直属の東京別院として再出発し今日に至っている。
◆草月会館
いけばな草月流の本部で、カーテンウォールに赤坂御用地の緑を写し込むハーフミラーの11階建てのビルである。
丹下健三設計で1958年に竣工した旧草月会館は、4本柱に建物が乗った独特のデザインで注目されたが、1977年に再建された現在の草月会館も丹下健三が設計した。 
1階には、イサム・ノグチ設計の石庭「天国」がある。1階には花を使った丹下の設計プランが既にあったが、勅使河原蒼風から依頼されたイサム・ノグチが石庭を提案し、蒼風、長男の宏、丹下とも相談し石庭に決まった。
5階には、いけばな教室、オブジェを飾った和室や蒼風の胸像などがあり、広い窓からは赤坂御用地が眼下に見渡せる。
1階と5階は自由に立ち入り出来るが、いけばな教室開催中の教室には入れない。
会館には、530席の多目的ホールもあり各種の催しに利用されている。
◆高橋是清翁記念公園
高橋是清の邸宅跡で、園内に是清の銅像や石像・石灯篭を配した小庭園があり、樹木の多い落ち着いた雰囲気の公園である。
高橋是清は絵師の子として芝に生まれ、仙台藩の高橋是忠の養子となり汐留の仙台藩邸で育った。14才でアメリカに渡ったが、騙されて奴隷として売られたりした。
帰国後文部省に入り、大学予備門で教える傍ら英語教師もこなし共立学校(現開成中・高校)の初代校長も務めた。予備門での教え子に正岡子規、秋山真之等がいる。
その後、日本銀行総裁、総理大臣、大蔵大臣などを務め、積極的経済改革を主導し財政家として知られたが、軍事予算の縮小を図ったことで軍部の恨みを買い、昭和11年の二二六事件の時、後で通る三分坂上のTBSに置かれていた近衛歩兵第三連隊の反乱軍青年将校に、ここにあった邸内で暗殺された。
戦災で是清ゆかりの建物は焼失したが、母屋は故人の眠る多磨霊園に移築されていたので難を免れ、現在は都立小金井公園内にある江戸東京たてもの園に移され公開されている。また、隣接のカナダ大使館もかっては高橋邸の一部であった。
尚、現在の赤坂、青山の地域が赤坂区として誕生した時の最初の赤坂区役所がこの公園に隣接して置かれていたので、その説明板が公園入口にある。
◆薬研坂
坂の形が、漢方薬の薬草などを砕く時に使う薬研に似ていることよる。
スケールの大きい坂で、坂上からその雄大な姿が一望出来る。青山通りから先ずは長い下りがあり、続いて円通寺坂との合流点に向かう長い上り坂となる。
◆三分坂
薬研坂からの道がTBSの所で直角に曲がり急な下り坂となる。これが三分坂(さんぷんざか)である。
坂名の由来は、坂下から荷車を運び上げるに際し、急坂のため後押ししてもらう車賃を銀3分(ぷん)程増額したためと云う。3分(ぷん)は100円程度、3分(ぶ)なら1両の3/4で何万円にも相当するので、{ぷん}読みが正しい。
◆報土寺
3分坂を下ると、短いながら弓なりの美しい塀がある。江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な練塀であり、此処が報土寺である。慶長19年(1614)に赤坂一ツ木に創建され、安永9年(1780)に現在地に移って来た。
 【左:梵鐘  右:雷電為右衛門の墓】    
この寺は力士・雷電為右衛門と深い係りがあり、妻と共葬された墓がある。雷電は身長197cm、体重168㎏の超大型力士で、21年間現役を勤め、江戸大相撲で254勝10敗と云う驚異的な成績を残し大相撲史上未曽有の最強力士とされている。生れは信州だが、出雲松江松平藩のお抱え力士として活躍した。日本書紀でも、能見宿祢(出雲)と当麻蹶速(大和)との対決相撲で宿祢が勝ったとされている通り、出雲は古来相撲の盛んな所であった。
雷電は報土寺の住職と生れが同じ信州と云う同郷のよしみで、報土寺に梵鐘を寄付した。然しこの鐘は、上部に「天下無双雷電」と刻むなど異様なものであり、鐘は取り壊され雷電も江戸払いとなった。現在の鐘は明治4年に鋳造されたものだが、往時と同じ銘文が刻まれている(但し、周囲からは見にくい)。
雷電の墓の奥には、江戸中期の高名な儒学者井部香山の墓(都旧跡指定)もある。
◆勝海舟邸跡
報土寺を出て3分坂を左に見て直進し、赤坂通りを横断して暫く行った所に、勝海舟邸跡の説明板がある。
勝海舟は終生赤坂の地を愛し、赤坂みすじ通りの借家から36才の時にこの地に移り住んだ。この地で過ごした10年間が、最も華々しく活躍した時期であった。
咸臨丸艦長として福沢諭吉等を乗せアメリカに行ったこと、刺殺しようとして訪れた坂本龍馬を説いて逆に熱心な門下生に育てたこと、幕府陸軍総裁として西郷隆盛と談判を重ね江戸城無血開城を決めたこと、などもこの時期のことである。
またここでは、流山で捕縛された近藤勇の助命嘆願に土方歳三が訪ねて来たとか、海舟の留守に官軍兵士が乱入して来た時、海舟邸に居た妹の佐久間象山未亡人が毅然と対応し危急を救ったとかの、逸話も残っている。
【赤坂教会】
◆赤坂教会
勝海舟邸跡から氷川坂に入り直ぐに左折すると転坂の上りになる。江戸時代から道が悪く、通行人がよく転んだのでこう呼ばれた。転坂を上り右折して進むと右手に赤坂教会がある。うっかり見逃しそうな小さな教会で、明治16年に米人ホイットニーが勝海舟より400坪購入し、病院・伝道所とした所である。昭和16年に赤坂氷川教会となり、戦災で焼失後、昭和26年に赤坂教会として再建されたものである。
◆勝安房邸跡
赤坂教会から暫く行くと元氷川小学校の大銀杏の下に、勝安芳邸跡の石碑と勝安房邸跡の説明板、そして勝海舟と坂本龍馬の像がある。海舟は1864年安房守に任ぜられてから「安房」と称したが、1868年の江戸城無血開城後は「安芳」と改めている。
海舟は一時の駿府生活後、明治5年(1872)に旗本柴田七九郎邸(2500坪、元は浅野内匠頭の屋敷)を購入し、49才の時にこの地に移り、明治32年76才で没するまで暮らした。
この地では新政府に出仕し、参議、海軍卿、元老院議官、枢密院顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、「氷川講話」、「海軍歴史」などを執筆した。
勝海舟は遺言により、別邸のあった洗足池畔、現在の大田区洗足池公園内に葬られ、墓は後に青山墓地から移された妻民子の墓と並んでいる。また海舟夫妻の墓の隣には、海舟が西郷の戦死を悼み、私費で作った西郷隆盛留魂祠碑がある。
◆南部坂
南部坂は六本木通りを挟んでアークヒルズの向い側、赤坂2丁目と六本木2丁目の境界にある。坂名の由来は、江戸時代初期この坂を上がった辺りに盛岡藩南部家(20万石)の屋敷があったことによる。明暦2年(1656)に赤穂藩浅野家と屋敷を交換し、南部家は現在の有栖川宮記念公園のある場所に移り、そちらでも南部坂が生まれたため、赤坂の方は難歩坂などと呼ばれもした。
この坂は忠臣蔵の名場面の一つ、大石内蔵助が浅野内匠頭の正室瑶泉院に暇乞いのため、高足駄に蛇の目傘を差して雪の坂を上がる「南部坂 雪の別れ」の舞台として知られている。
◆氷川神社(赤坂氷川神社)
天歴5年(951)一ツ木村(現在の赤坂四丁目)に祀られ、祭神は素戔嗚尊、奇稲田姫命、大国主命で、厄除、良縁、家内安全、商売繁盛などの御神徳が強い神社とされてきた。江戸時代に入り幕府の尊信が篤く、8代将軍吉宗が現在地に社殿を建て一ツ木村より遷座が行われた。
社殿は本殿、幣殿、拝殿が一つになった権現造で、享保の改革と呼ばれる倹約政策を行った吉宗らしく質実簡素な造りである。安政大地震、関東大震災、東京大空襲を免れ、江戸時代当時のままの姿を残しており、東京都重要文化財に指定されている。
元禄の頃この地は、浅野内匠頭長矩の夫人阿久里の実家である備後国三次藩浅野家の下屋敷であった。1701年赤穂事件で長矩が切腹を命じられた後、正室の阿久里は出家し瑶泉院と称し、実家である三次浅野家に引き取られ、1714年に死去するまでこの地で過ごした。境内の一角にひっそりと浅野土佐守邸跡の説明板がある。
境内にある大銀杏は都指定天然記念物であり、港区内では麻布善福寺にある国指定天然記念物の逆さ銀杏に次ぐ大きさと樹齢である。
また境内には、明治31年に赤坂の稲荷四社を遷座合祀し、勝海舟が名付けた四合(しあわせ)神社がある。
◆檜町公園
この地一帯は江戸時代に長州萩藩毛利家の麻布下屋敷があった所で、屋敷の庭園は清水園と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園の一つとして知られていた。檜木が多かったことから毛利家の屋敷は檜御殿とも呼ばれ、後の檜町と云う地名や公園名の由来となった。
明治時代になり屋敷一帯は国の管轄となり連隊の駐屯地となった。戦後一時期の米軍接収後、敷地の大部分は防衛庁となり、残りの部分が1963年に都立(後に港区立)檜町公園となった。2000年に防衛庁は市ヶ谷に移転し、その跡地に東京ミッドタウンが開発され、当公園も再整備された。
池を中心とした東屋のある回遊式庭園、せせらぎが心地よい和の雰囲気の渓流や、遊具のある芝生エリアがあり、ミッドタウンガーデンの芝生広場とも繋がり、都会の中とは思えない時間が感じられ、地域の人々の憩いの場となっている。 
◆乃木神社
乃木希典将軍と乃木静子夫人を祀る神社である。
明治45年7月30日に明治天皇が崩御され、大喪の日の大正元年9月13日、棺を乗せた車が宮城を出発する号砲が打たれた午後8時過ぎ、乃木夫妻は天皇に殉じて自刃した。その葬儀と同時に幽霊坂と呼ばれていた坂の名前が乃木坂と改められた。時の東京市市長が広く同志を集め、乃木邸内の小社に夫妻の霊を祀った。
大正8年(1919)に乃木邸の隣地への乃木神社創立の許可がおり、大正9年(1920)の明治神宮創建の後に造営が始まり、大正12年(1923)に鎮座祭が斎行された。
境内には、本殿、幣殿、拝殿の他、宝物殿、旧乃木邸、厩、乃木公園などがある。
【担当: 2班】