馬込文士村散策

東側のJR大森駅と西側の地下鉄西馬込駅の間にある大田区山王及び馬込の地域には、大正から昭和にかけて多くの文士や芸術家が住んでいました。
いつしか馬込文士村と呼ばれるようになったこの地域の記念館、博物館や点在する解説板を巡り、かっての文士村の面影を辿る散策です。
1.月日  平成31年4月27日(土)
2.集合  8:30 所沢駅2階改札内
3.行程
所沢駅8:37(急行)⇒ 池袋駅⇒ 品川駅⇒ JR大森駅→ 文士村レリーフ→ 山王会館→ 龍子記念館→ 熊谷恒子記念館→ 12:50郷土博物館(昼食)→ 満福寺→ 山王草堂記念館→ 尾崎士郎記念館→ 日枝神社→ JR大森駅   
歩行:約7km   解散は15時半頃
4.費用 : 交通費 所沢駅 ⇒ JR大森駅  片道 650円
       (何処も入館料は不要です)
出席者 14名
◆馬込文士村
馬込文士村は実在の村ではなく、大正から昭和にかけ、大田区の馬込・山王地区に多くの文士や芸術家が居を構え活躍したことから、後にこの地区一帯が馬込文士村と呼ばれるようになったものである。幾つかの記念館の他に、文士達の居住跡に解説板が点在しており、往時の面影を辿る文学散策コースとなっている。
歴史的には、馬込文士村の舞台となる馬込村(現在の馬込地区一帯)及び入新井村(現在の山王、中央付近)は、江戸時代までは農村地帯であった。
明治に入り大森駅が開業されると山王一帯は東京近郊の別荘地として開発されるようになり、文化人の往来も見られるようになった。明治の終わり頃には、川端龍子、小林古径、片山広子などの芸術家や詩人が住むようになり、大正に入ると彼らは「大森丘の会」と称した会合を頻繁に行っていた。
大正12年に、後に宇野千代と共に馬込文士村の中心となった尾崎士郎が馬込に移住し、知り合いの文士達を勧誘していた。これに拍車をかけたのが関東大震災で、壊滅的な被害を受けた東京市内から馬込など郊外に多くの人が移って来た。また東急線も開通し、馬込地区の人工は大正末期から昭和初期にかけて劇的に増加した。
尾崎士郎や萩原朔太郎等の誘いもあり、多くの文士達も馬込一帯に移り住み、所謂
馬込文士村が形成された。文士達の交流はとても密で、文学談義、麻雀、酒、ダンス、恋愛、相撲などを楽しんでいた。尾崎士郎が一時的に去った昭和5年頃までが、馬込文士村の最盛期であったと考えられている。
現在馬込地区、山王地区を分断するように環状七号線が通っている。文士村の範疇については、これを旧馬込村に限定する説と、周辺の山王・中央も含める説とがあり定説は無いが、大田区の案内書では周辺を含めて紹介している。また文士だけでなく画家等の芸術家を含め、年代的にも戦後の山本有三、三島由紀夫まで幅広くとらえている。
戦後再び山王に居を構え没するまで過ごした尾崎士郎の他、室生犀星、川端龍子、村岡花子、倉田百三、山本有三などがこの一帯で生涯を終えている。
◆馬込文士村住人レリーフ
JR大森駅の向いにある天祖神社の石段の壁面に、当時の文士達の交流を描いた幾つかのレリーフがあり、その生活の様子を一目で垣間見ることが出来る。
このレリーフは、大森側からの文士村散策の開始地点を飾るものとして、遺族の了解も得て平成2年12月に大田区が設置したものである。43人の顔を彫ったレリーフ(後掲)は印象的で、パンフレットの表紙などに多用されている。
◆文士居住跡解説板
今回の散策では途中、次の順で文士・芸術家の解説板に立ち寄る。
山本有三、片山広子、倉田百三、川端龍子、川端康成、石坂洋次郎、萩原朔太郎、衣巻省三、稲垣足穂、尾崎士郎、宇野千代、熊谷恒子、佐藤朝山、小林古径、室生犀星、山本周五郎、北原白秋、添田さつき、(徳富蘇峰)、尾崎士郎
◆山王会館
マンションの様な外観の建物で、大田区の地域集会室・ホールがあり、その1階に「馬込文士村資料展示室」が併設されている。文士村散策コースの拠点の一つとして平成7年5月に開設された。小さな施設で、尾崎士郎、宇野千代、山本有三、高見順、吉屋信子、村岡花子達の資料が展示されている。尚、文士に関する資料の展示は、郷土博物館の方が充実している。
◆龍子記念館
近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885~1966)自身によって、文化勲章受章と喜寿を記念して、自身の代表作を展示・公開するために、1963(昭和38)年自邸内に設立された。140点余の龍子作品を所蔵し大画面の作品を季節毎に展示替えしている。隣接する龍子公園には、旧宅とアトリエが当時のまま保存されており見学出来る。
川端龍子は和歌山市に生まれ、10才で家族と上京。中学を中退して白馬会洋画研究所や太平洋画会研究所で洋画を学んだ。28才で渡米しボストン美術館で見た日本美術に大きな感銘を受け、帰国後は日本画に転じた。やがて院展で頭角を現し日本美術院同人となったが、作風の違いから美術院を脱退し、美術団体青龍社を創立主宰した。
豪放な筆致による大作で常に画壇を賑わした。帝国美術院会員、帝国芸術院会員にも推されたがいずれも辞退し、野にあって画業に専念した。1959年文化勲章受章。
記念館は当初より運営を行ってきた青龍社の解散に伴い、1991年からは大田区が事業を引き継いでいる。
◆熊谷恒子記念館
現代女流かな書道界の第一人者、鳩居堂夫人熊谷恒子(1893~1986)が生前住んでいた家を改修し、1990(平成2)年記念館として開館した。恒子の作品や愛蔵書等を展示している。
熊谷恒子は京都に生まれ、熊谷幸四郎(後の銀座鳩居堂支配人)と結婚し、鳩居堂東京進出に際し東京に転居した。岡山高蔭にかな文字を学び、平安朝の古筆を独習、独自の境地を拓いた。彼女の慎ましい人柄、書から溢れ出す気高さは同時代の女性の憧れの的であった。昭和40年皇太子妃美智子殿下に書道をご進講したが、美智子殿下はお忍びで何度か自宅を訪れたという。日展審査員・評議員。
昭和42年に大東文化大学教授に着任し、昭和55年に勲四等宝冠章を受章した。
◆郷土博物館
1979(昭和54)年に開館した人文科学系の大田区立博物館で、考古、歴史、民俗資料などの文化遺産を保管・展示している。3階には、大正から昭和にかけて後に馬込文士村と呼ばれる地区に居住していた文士、芸術家達の作品、自筆原稿、遺品等を展示している。                                
ここにも徳富蘇峰の展示が無いが、これは文士達と距離を置いていたためと言うことより、山王草堂記念館の方に手持ち資料を提供したためと博物館は説明している。
この博物館の入口に設置されている長い石のベンチで昼食の予定である。
◆満福寺
曹洞宗の寺院。源頼朝の命により梶原景時が1192年に大井丸山(現品川区)に建立し、後に現在の馬込に移されたと伝えられる。開基とする景時の墓所が境内にある。  
室生犀星は親友の芥川の死去に伴い、萩原朔太郎の勧めで田端から山王に移り、後にこの馬込の満福寺に隣接する土地に家を建て、以降は終生軽井沢の別荘と馬込の自宅を行き来して過ごした。その縁で境内には、この寺を詠んだ犀星の句碑が、犀星の長女朝子や満福寺山主によって建てられている。
◆山王草堂記念館
明治・大正・昭和にかけて活躍した新聞人・ジャーナリスト・歴史家である徳富蘇峰(1863~1957)が、山王地区に居宅を建て「山王草堂」と称して、1943年に熱海に移るまで住んだ旧宅跡である。
1988年大田区により蘇峰公園として整備・公開された。蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元・保存されており、館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。
蘇峰は1863(文久3)年熊本に生れ、13才で新聞記者を志して上京し東京英語学校(後の旧制一高)に入学。14才で新島襄設立の同志社英学校(後の同志社大学)に入学したが途中退学し、熊本で大江義塾を開塾。1886年「将来之日本」を出版し好評を得たので一家で上京し、出版社「民友社」を設立。雑誌「国民之友」を発行、次いで「国民新聞」を創刊した。
その後欧州漫遊をしてトルストイを訪問したり、貴族院議員として政界に参画したりした。1918(大正7)年56才で代表作「近世日本国民史」の執筆に着手し、90才にて全100巻を完結した。同書の原稿は殆どこの山王草堂で書かれた。途中1943(昭和18)年に文化勲章を受章し、この年に熱海伊豆山「晩晴草堂」に移っている。
蘇峰は近世日本国民史以外に約200冊も執筆しており、ギネスによると世界一沢山の本を出したとされている。また蘇峰は、日本を代表する文化芸術の大物3人(横山大観、佐々木信綱、蘇峰)の中の一人、或は明治二枚目(イケメン)ベスト3(東郷平八郎、土方歳三、蘇峰)の中の一人などと言われている。後者の評は長髪の若い頃の写真からもある程度うなずける。
尚、蘇峰が晩年を過ごした熱海の晩晴草堂は、現在山中湖畔にあり同志社大学の施設となっている。また神奈川県二宮には、展示の充実した徳富蘇峰記念館がある。
◆尾崎士郎記念館
馬込文士村の中心人物とされる尾崎士郎(1898~1964)が亡くなるまでの10年間を過ごした家を復元し、士郎の旧居(客間、書斎、書庫、庭)を紹介することで、在りし日の馬込文士村の賑わいを後世に伝えるために、大田区が2008(平成20)年に記念館として開館したものである。建物内に入れるのは月一度の学芸員立会の時のみであるが、年末年始以外は無人の記念館周囲の庭に自由に立ち入り、ガラス戸越しに建物内を良く見学することが出来る。
尾崎士郎は愛知県に生まれ、早稲田大学在学中に社会主義運動にかかわり大学を中退。売文社に出入りしていたが、1921年「獄中より」、「逃避行」を刊行して、社会主義作家として文壇に登場した。
1922年宇野千代と結婚し馬込村に居を構え文士達の交流の先導役を果たしたが、生活は苦しく、やがて梶井基次郎を巡り千代との夫婦関係も悪化し、作家活動としては不遇であった。1930年に千代と正式に離婚し古賀清子と再婚した後、1935年に刊行した「人生劇場」を川端康成が絶賛し一躍人気作家となった。
戦時下は「成吉思汗」、「篝火」、「石田三成」などの歴史小説を手がけ、また従軍作家として戦地に赴いたりした。戦時中の国粋主義的言動のため戦後一時追放令を適用されたが、「天皇機関説」で文壇に復帰し、歴史小説を多く書くなど中間小説作家として活躍した。 
相撲好きで「雷電」等の著作もあり、相撲審議会委員を終生務め、酒豪でもあった。
1964年に記念館となったこの自宅で死去し、文化功労者が追贈された。
◆大森山王日枝神社
もとは新井宿村の名主が邸内に祀った社で、山王社と称されており、鎮座地である山王地区の地名の由来となっている。
その後隣接する成田山円能寺が管理していたが、明治の神仏分離令により独立し、日枝神社と改称された。空襲で社殿は焼失したが、1960(昭和35)年に氏子一同により再建された。
馬込文士村の住人のレリーフは43人で、「石坂洋次郎、稲垣足穂、今井達夫、宇野千代、尾崎士郎、片山広子、川瀬巴水、川端茅舎、川端康成、川端龍子、北原白秋、衣巻省三、倉田百三、小島政二郎、小林古径、榊山潤、佐多稲子、佐藤朝山、佐藤惣之助、子母沢寛、城左門、添田さつき、高見順、竹村俊郎、萩原朔太郎、日夏耿之介、広津柳浪、広津和郎、藤浦洸、真野紀太郎、牧野信一、真船豊、間宮茂輔、三島由紀夫、三好達治、室生犀星、室伏高信、村岡花子、山本周五郎、山本有三、吉田甲子太郎、吉屋信子、和辻哲郎」が彫られている。
この43人のレリーフでは特に親密であった数人毎にグループ分けされているが、どこにも徳富蘇峰は入っていない。蘇峰は川端龍子と交流があったが、文士達との交流はそれ程密なものでは無く、少し距離を置いたジャーナリストであったことによるようである(大田区でも今は詳細不明である)。
また戦後の書道家である熊谷恒子も入っていない。                
【担当:2班】