千住界隈約3キロを観光ボランティアと歩く

9月例会は、荒川区から足立区にまたがる千住界隈約 3kmを観光ボランティアさんの案内で散策します。(昼食前迄の案内)千住は日光街道、奥州街道の日本橋から1番目の宿場町で、芭蕉が奥の細道へ旅立った処でもあります。
昼食は久しぶりにフランス料理を堪能したいと考えています。
1.月日: 9 月 13 日(金)
2.集合: 8 時 50 分 所沢駅2階改札内  (8 時 58 分の池袋駅行き乗車予定)
3.行程:  所沢駅発 8:58~池袋駅発 9:35~日暮里駅発~南千住駅着 9:57  南千住駅→松尾芭蕉像→延命寺・小塚原刑場跡→荒川ふるさと文化館→素盞雄神社・矢立 初めの句碑→千住大橋→足立市場→千住宿歴史プチテラス→源長寺→東京芸術センター(昼食)→北千住駅(解散)  ※昼食以降の散策は希望者のみ。  ※解散は 14 時頃の予定
4.費用: 交通費往復 1,010 円  ※荒川ふるさと文化館はガイドさんのご配慮により無料となります。
5.昼食: 東京芸術センター20階「フランス料理タピ ルージュ」で昼食の予定。
Aコース¥2,500      各自払い
※A コース:オードブル、メインディッシュ、デザート、コーヒー
6.出席者: 12名
◆千住の由来
千住という地名は、戦国時代の末頃から確認できます。由来は「新編武蔵風土記」(1822 年)に採録された、1327 年に新井正次が荒川(現隅田川)から引き上げ、勝専寺に祀られた千 手(せんじゅ)観音に因むという説や、「南足立郡誌」(1916 年)に採録された、戦国時代の領 主千葉氏が住んだことに因むなど、諸説あります。  いずれも伝説の域を出ませんが、多くの人々が千住に愛着を持ち、地名に親しんだ証拠で す。(足立風土記」より)
◆松尾芭蕉 
元禄 2 年(1689)3 月 27 日、松尾芭蕉は千住の地から奥の細道へと出立し、矢立初めの句 「行春や鳥啼き魚の目は泪」を詠みました。この松尾芭蕉像は、彫刻家平野千里氏により制作され、奥の細道千住あらかわサミットが開催された平成 27 年 3 月に矢立初めの地千住を徴する像として建立されました。
◆延命寺・小塚原刑場跡
品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場で、明治時代初めに廃止されるまで、磔(はりつけ)・ 斬首などが執行されていました。「小塚原の首切り地蔵」が、江戸の刑死者をはじめとする 無縁の霊を静かに見守っています。
◆回向院
吉田松陰・橋本左内ら幕末の志士の墓や、鼠小僧次郎吉・片岡直次郎・高橋お伝らの墓が
あります。杉田玄白や前野良沢らがここでの刑死者の解剖見学をきっかけに「解体新書」を翻訳したことから、近代医学発祥の地として観臓記念碑が建てられました。
【左:吉田松陰の墓  右:橋本佐内の墓】
【観臓記念碑】
◆円通寺
曹洞宗の寺院。山号は補陀山。本尊は聖観音菩薩。
この寺は寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。明治維新の折、1868年(慶応4年)の上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員をこの寺の住職が火葬を行っています。
この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もあります。
【上野寛永寺の総門(黒門)】
【彰義隊員の墓】
また、1963年3月に発生し、1965年7月に解決した吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られています。敷地内には被害者の慰霊地蔵があります。     ⇒ ⇒ ⇒
◆下谷道
下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り、素盞雄神社の所で右におれ奥州街道に合流する道は、江戸時代、日光道などともよばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮が日光に行く際の道とされていました。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わっていたそうです。
◆荒川ふるさと文化館
荒川区の博物館で、荒川区の歴史、文化を紹介しています。
昭和41年の復元家屋が人気だそうです。
2階、3階は図書館でした。
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素盞雄神社へ向かう。









◆素盞雄神社
荒川区内で最も広い氏子域をもつ鎮守です。6 月の天王祭では、担ぎ棒2 本のみで屋根の 鳳凰が地面につくほど神輿を左右に激しく振る勇壮な二天の神輿振り姿が圧巻です。
また、 江戸時代文政 3 年(1820)に、南北の千住宿の文人らによって建てられた、松尾芭蕉の奥の細道矢立初めの句を刻んだ句碑があります。  芭蕉旅立ちの「弥生も末」には、芭蕉の偉業を称え、郷土の歴史継承と俳句文化興隆を願い、奥の細道矢立初め全国俳句大会が開催され、多くの参加者で賑わいます。
【天王宮】
【松尾芭蕉の句碑】
◆千住大橋
千住大橋は、隅田川の東京都区部にかかる橋で、国道4号(日光街道)を通しています。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目。旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)の二橋で構成されており、旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行しています。
【足立市場付近】
◆千住宿歴史プチテラス 
千住四丁目の元地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を平成 5 年(1993)に移築したもので す。間口2間半、奥行き3間半の2階建てで母屋と棟続きの内蔵として使われていました。 棟札から天保元年(1830)3月に建築されたことがわかります。プチテラス整備にともない土蔵のほかに、横山家から庭石、千住二丁目の山崎家から高さ8 尺の石灯籠、千住四丁目氷川神社から力石の寄贈を受けました。地元の「千住宿歴史プチテラス維持会」の方々によって管理され、ミニ展示会などに利用されています。また、門前には松尾芭蕉の句碑「鮎の子のしら魚送る別れ哉」が建立されています。(見過ごしてしまったため、写真がありません)
◆源長寺 (立ち寄りませんでした)
浄土宗寺院の源長寺は、稲荷山勝林院と号します。源長寺は、慶長3年(1598)当地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠次を勧請開基とし、圓誉不残(元和3年寂) を開山に迎えて慶長15年(1610)創建したといいます。境内の地蔵尊は千住七福神の寿老 人です。
◆東京芸術センター(昼食)
【東京芸術センタービルへ】
【1品目のオードブル】
【メインディッシュ】
《食後、解散したので以下の場所は中止》
◆千住宿本陣跡 
本陣の利用者は勅使、院使、宮、門跡(もんぜき)、公家、大名、旗本などで、一般の利用はできませんでした。千住宿をはじめ日光道中の宿場で最も重要視されたのは、江戸と日光を年に三回往復する日光門主の通行でした。また、参勤交代では仙台藩伊達家や久保田(秋田)藩佐竹家をはじめとする諸大名が江戸と国元を往復しました。文政 4〜5 年(1821〜22)の例では日光道中で41 家、千住宿内で日光道中から分岐する水戸佐倉道で 20 家が通行しました。千住宿の本陣は基本的に1 か所で、千住三丁目の秋葉市郎兵衛方が世襲によって長期間に渡って本陣を勤めました。今は路地入り口に石柱があり、路地横に本陣の様子の記録があ ります。
◆横山家住宅
漉返紙の問屋であった横山家住宅は江戸時代の代表的な商家建築です。商家の店先は街道に面し、土間と帳場(ミセ)が商売の場所となります。土間は荷物の置き場になり、帳場は接客をする場所となります。帳場の奥は家族や従業員の住居、商品や生活用具を保存する蔵の出入口に続いています。敷地は街道に面する間口に対して奥行きが長くなっています。 屋敷の裏手が、貸家や町人の住居となっていました。
※漉返紙(すきがえしがみ):使用済みの和紙(反古紙)を漉き直して作った中古の和紙。
◆名倉医院 
江戸時代から知られる骨接ぎの代名詞「千住の名倉」。全国区の知名度を誇る「名倉医院」は1668 年から東京都足立区千住ではじまり、その4代後の名倉弥次兵衛直賢が骨接ぎを始めました。最盛期の大正時代には1日の患者が 300人から500人に達し、夜が明けると旧道は骨折や脱臼の患者の戸板や籠の行列で埋まったと言われるほど。 現在では文京区お茶の水に場所を移し、整形外科医院として今なお多くの患者の治療を行っています。
【担当:3班】