三田から芝への散策

泉岳寺駅に隣接する江戸時代遺構の高輪大木戸跡から、高輪皇族邸を経由し三田台の寺社や公園を巡り、慶応大学で昼食後、芝の丸山古墳を見て増上寺まで散策します。
1.月日 令和元年(2019)11月9日(土)
2.集合 8:50 所沢駅2階改札内
3.行程 所沢駅 9:00⇒9:37 池袋駅⇒10:15 品川駅⇒10:30 泉岳寺駅
泉岳寺駅→高輪大木戸跡[5]→<高輪皇族邸>→(15)大石良雄外碑[5] →(15)長松寺[5]→(3)大信寺[2]→(5)魚籃寺[5]→(5)薬王寺[5] →(5)三台公園[15]→(2)亀塚公園[8]→(5)御田八幡神社[5]→<札ノ辻> →(10)慶応義塾大学・昼食[70]→(10)<三井倶楽部>→(20)芝丸山古墳[10] →(10)芝東照宮[5]→(5)増上寺
歩行時間は約2時間 解散は 15:00 頃
→( )は徒歩時間、 [ ]は見学時間、 < >は通過場所
4.費用 : 交通費 往 : 所沢⇒泉岳寺 720 円 / 復 : 御成門⇒所沢 610 円(最低)
5.昼食 : 慶応大学の学食を利用
6.出席者:13名

◆高輪大木戸跡
木戸とは江戸市中の町境などにあった防衛・防犯用の木製の扉で、その大規模なものが大木戸と呼ばれ、江戸時代に街道上の江戸内外境界に設置された簡易な関所でした。主な大木戸は、東海道の高輪大木戸、甲州街道の四谷大木戸、中山道の板橋大木戸でした。板橋大木戸はそもそもその存在が疑問視されており、また四谷大木戸は既に痕跡を留めていないので、高輪大木戸は東京に残された数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要なものです。
高輪大木戸は宝永七年( 1710)に芝口門に建てられ、その後現在地に移されました。 江戸の南の入口として、道幅約6間(約 10m)の旧東海道の両側に、幅 20mの石垣 (土塁)を築き、石垣の間に木戸を設け、夜は通行止めとし、治安の維持と交通規制 の役割を果たしました。 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあり、 当時は品川宿に至る湾岸の景色も良く、月見の名所でもありました。また幕末期に伊 能忠敬はここを全国測量の基点としました。 江戸時代後期には大木戸は廃止され、明治初年に黒塗りの木戸が新しく設けられましたが、その後石垣だけとなり、更に道路拡張のため山側の石垣は撤去され、現在は海岸側に幅 5.4m、長さ 7.3m、高さ3.6mの石垣のみが残されています。
◆高輪皇族邸 
旧高松宮邸で、高松宮が 1987 年薨去後も喜久子妃が 2004 年薨去するまで使用されていました。元々54 万石熊本藩細川家の宏大な下屋敷の一部で、戦前は高輪御殿と通称されていて、明治天皇第六・七皇女が住まわれ、1913~1924 年は昭和天皇の東宮御所でした。 戦災は免れましたが、宏大な敷地は財産税物納のため戦後は半分に縮小され、払い下げられた場所には今の都営アパートや高松中学校が建てられました。
2004年以降は無人のまゝ宮内庁管理下におかれましたが、平成天皇の退位に伴い、仙洞御所(従来の赤坂御用地東宮御所が赤坂御所と改称され今上天皇の御所として使用され、今上天皇の皇居御所転居後に改修し仙洞御所と改められる)が整備されるまでの間、仙洞仮御所として上皇が使用される予定です。また仙洞御所整備後は皇族共 用の邸宅として使用される予定です。
◆大石良雄外十六人忠烈の跡
高輪皇族邸に隣接する都営アパートの裏手、高松中学校の塀の前に、旧細川邸の庭 園の一部が保存されており碑があります。大石内蔵助等 17人の赤穂浪士が元禄十六 年(1703)2 月 4 日、ここにあった熊本藩細川越中守の下屋敷で切腹しました。 当時の藩主五代綱利は大目付仙石伯耆守の屋敷に、総勢 875人の藩士と駕籠を送り 浪士身柄の引渡を受けます。この様な大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すと共に上杉藩の襲撃を警戒したためと言われています。細川家は大藩の威厳と識見を以て優 遇し、御預四家の中で、深夜にもかかわらず即日引見したのは細川家だけでした。
大石等の遺体は直ちに泉岳寺に運ばれ埋葬され、また切腹した跡地は屋敷の守護神 としてそのまま残されたそうです。
◆旧細川邸のシイ 
忠烈の碑の近くに、旧細川邸にあった椎の巨木があります。 主幹は高さ10mあたりで切断され、下部の空洞は樹脂で埋められていますが、幹囲 が 8m以上ある樹齢300年を越えるスダジイの巨樹で、東京都の天然記念物に指定さ れ、都内23 区では第4位の巨木と云うことです。
◆長松寺
白金高輪駅近くの魚籃坂下交差点を東に進むと、国指定史跡の荻生徂徠の墓がある 長松寺があります。
徂徠は江戸時代中期の儒学者で柳沢吉保に重用され、5代将軍綱吉や8代将軍吉宗 からも諮問をうけ、また赤穂浪士の処分裁定論議では、賛美助命論も展開される中で浪士全員の切腹を主張しました。 講談などの演目「徂徠豆腐」は、将軍の御用学者となった徂徠と貧窮時代の恩人の 豆腐屋が赤穂浪士討入りを契機に再会する話です。
◆大信寺
 魚籃坂の上りがけにある大信寺は「三味線寺」とも呼ばれ、三味線製作の始祖とさ れる石村近江(おうみ)の墓があります。京都から江戸に来た石村家は代々「近江」の名を継ぎましたが、特に五代までは名工とされ、その三味線は「古近江」の名で名器として珍重されています。
◆魚籃寺
魚籃坂の中程にある赤く小さな門構えの魚籃寺は坂名の由来となった寺で、豊前中 津より寛永七年(1630)に当地に移転しました。本尊は魚の入った魚籃を持つ魚籃観音 像で、唐の時代に仏が乙女の姿で現れ、魚を売りながら仏法を広めたと云う故事に基づいて造形されたそうです。航海の安全と大漁を祈願する船舶関係者が多いそうです。
◆薬王寺
麻布狸穴に開創され、後に現在の地に移転して来た薬王寺の境内には、俳人加賀千代女が「朝顔に釣瓶取られてもらい水」と詠んだと伝えられる井戸があります。
千代は諸国歴遊の途中で薬王寺の井戸水が霊水であるとの噂を耳にし、ここに立ち 寄ったそうです。千代の句に多く詠まれている朝顔は地元白山市の市花で、毎年朝顔 市が開かれているそうです。
◆三田台公園
 伊皿子貝塚遺跡の発掘調査で発見された貝層の断面と竪穴式住居跡が復元展示さ れており、港区で唯一の遺跡公園です。貝層断面は貝が厚く積もった部分を、接着剤で接合して剥ぎ取り保存展示しているものです。
伊皿子貝塚は、三田の旧三井家邸宅敷地(現NTTデータ敷地)にあった縄文時代 後期の貝塚で、貝層の上下からは住居跡や墓跡、土器などが発見されています。この貝塚の壮大な貝層断面は現在白金台の港区立郷土歴史館に展示されています。 竪穴式住居跡は、貝層下から発見された縄文時代後期初頭の住居跡を推定復元した もので、内部には縄文人家族が炉を囲んで生活している様子も展示されています。
◆亀塚公園
 三田台公園の近くにある小さな児童公園で、園内にある円墳状の盛り土が都史跡の亀塚です。亀塚の頂部にある亀山碑の説明板に、この地が更級日記の竹芝寺伝説の故地であると書かれています。 奈良時代に武蔵から奈良の衛士に召された兵士が内親王に思慕され、二人でこの地に下り幸せに暮らしたと云うのが竹芝皇女の物語で、この亀塚はその姫の墳墓との言 い伝えがあります。
しかし昭和 46 年に実施された港区と慶応大学の合同調査では、多 数の土器破片が発見されましたが、埋葬施設や副葬品などは見つからず、古墳であっ たことは確証されていません。 沼田城主が建立した亀山碑の説明板には、ここにあった竹芝伝説の衛士宅地の酒壺 の下に住んだ霊亀を土地の人が神として崇めていたとの伝説も紹介されています。
◆御田八幡神社
亀塚公園より木造の長い階段を下りた所に、剪定を最低限にとどめた木々に囲まれ た御田八幡神社があります。「御田」は三田の古称で、和銅二年(709)に東国鎮護の神として現在の白金の地に創建され、後に三田に遷座しました。名称は何回も変り、明治30年(1897)に御田八幡神社と称号されました。東京大空襲で社殿は焼失しましたが、昭和 29 年に再建されました。
◆札ノ辻
江戸時代に東海道の高札場が設けられていた所で、東海道はここで芝を経て日本橋 に向かう道筋と飯倉から虎ノ門に到る道筋の二つに分かれていました。後にここに芝口門が建てられ、高札場は高輪大木戸の方に移され、ここは元札ノ辻 と呼ばれましたが、明治に入り再び「札ノ辻」の名称に戻りました。 近くに 50人のキリシタンが殉教した「元和のキリシタン殉教碑」があります。
◆慶應義塾大学
慶応義塾は、安政五年(1858)、福沢諭吉が江戸に開いた蘭学塾に始まり、創立から 150 年を超える日本で最も長い歴史を持つ総合学塾です。 1920 年(大正 9 年)、大学令による日本最初の私立大学として新発足した慶応義塾大 学には、東京都、神奈川県に、三田、日吉、矢上、信濃町、湘南藤沢、芝共立の六つ のキャンパスがあります。
文、経、法、商などの文科系学部があり、また大学の本部もある三田キャンパスは、 慶應義塾の代名詞にもなっており、創立以来の歴史と伝統が刻まれています。
キャンパス内には、国の重要文化財である三田演説館や慶應義塾図書館旧館、また福沢諭吉終焉之地の碑などもあります。
◆綱坂 
慶応大学西門を出た所にある坂の名で、坂田金時等と共に酒呑童子を退治し、また後に羅生門の鬼を退治したと云う伝説がある渡部綱がこの付近で生まれたと云う伝説によるものです。 この付近(現在の三田二丁目)は、かって三田綱町と呼ばれ、現在でもビルなどの 名に「綱町」の名が残っています。坂の右側のイタリア大使館は、赤穂浪士の大石主 悦等が切腹した松山藩の中屋敷の跡です。
◆三井倶楽部(綱町)
三井倶楽部 1913 年に三井家が賓客接待用として建てたもので、一般公開はされていませんが、 三井グループ関係者の倶楽部として使われています。 イギリス人建築家のジョサイア・コンドルが設計したネオバロック風の装飾が見事 な建物です。外からは見えませんが、南側の斜面と低地には、西洋庭園と日本庭園が 広がっているそうです。
ここからの下りが綱の手引坂と呼ばれる坂です。
◆芝丸山古墳 
都内にはかって全長 100m級の古墳が3基あったと言われ、その中でも芝丸山古墳 は最大級の規模だったと言われます。他の2基は大田区田園調布の多摩川台古墳群にあり保存状態も良いそうです。 古墳の登り口には、次の様な東京都教育委員会の説明板があります。 「 全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。<途中省略> 前方部が狭く低い 形態や、占地状態などから五世紀時代の築造とみられており、そのころ付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。」
古墳の頂部に伊能忠敬測地遺功表があります。伊能忠敬のこの地での測量実習を記 念する石碑で、明治 22 年に設置され、戦災で失われた後、昭和40年に再建されたと のことです。 古墳の中腹には、小さい社ですが、圓山随身稲荷大明神があります。江戸城の裏鬼 門を封じていると言われる増上寺の裏鬼門を鎮護しているとのことです。
◆芝東照宮
徳川家康が還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城で祭祀していましたが、遺言により「寿像」を祭祀する
社殿が増上寺に建造されました。三代将軍家光により新社殿が造営され、その後豪奢な社殿が整いました。明治に入り神仏分離令により増上寺から切り離され芝東照宮となりました。東京大空襲により「寿像」と神木の銀杏を残し全て焼失し、昭和44年(1967)に現在の社殿が再建されました。
◆増上寺
明徳四年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって創建された、浄土宗七大本山の一つで、ご本尊は阿弥陀如来です。境内には、大殿、三解脱門、 徳川家霊廟などあります。大殿地下には宝物展示室もあります。(霊廟:500円、宝物展示室 700円)
【お江の方と徳川秀忠】
【皇女和宮】
【担当:2班】