所沢七福神めぐり

令和2年度最初の例会は、  所沢にて初めて開場さ れる「 所沢七福神めぐり 」(八国山・荒幡富士コース)を計画しまし た。 昼食はイタリ アン・レスト ランにて手作リ ピザ ・ パスタ を愉し み、新春の地元所沢の由緒ある古刹をめぐります。
1.日 時  令和2年 1月 7日 (火)
2.集 合   10時   所沢駅西ロタクシ一のりば
3.行 程 10:00 所沢駅 → ①恵比寿天(持明院)⇒ ②大黒天(長久寺)⇒ ③弁財天(永源寺) 12:15-13:00 ⇒ ④福禄寿(佛眼寺)⇒ レストラン周(昼 食)⇒ (吾妻公民館)⇒⑤寿老人(光蔵寺)⇒ ⑥布袋尊(本覚院)⇒ (いきものふれあいの里センタ ー)⇒⑦毘沙門天(海蔵寺)⇒ 下山口駅 (下山口駅にて解散)
4.出席者:14名
【所沢駅前】
1.淵上山持明院 (恵比寿天)
真言宗豊山派の寺院である。
元慶2年(878年)権大僧都寂寛(じゃっかん)によって創建されたと伝えられ、大僧都賢心が天和年間(1681年~1683年)に中興したとされている。当時は秋津村の中央に位置し、松根寺と言われていたようであるが詳しい事は不明である。
現在の地に移ったのは享保6年(1721年)3月で、改名したのもこの時の模様であるが、古くは地明院と言われていたこともあったようである。
曼荼羅堂(阿弥陀堂)の本尊阿弥陀如来は弘法大師の作と伝えられていたが、明治17年の火災で焼失し、現在の阿弥陀如来の作者は不明のようである。
持明院の本尊不動明王は正徳年間(1711年~1716年)に作られたといわれている。

2.花向山常行院長久寺 (大黒天)
所沢市内唯一の時宗の寺院。
開山は時宗の開祖一遍上人の死後、その意思を継いだ弟子玖阿弥陀仏(きゅうあみだぶつ)により元弘元年(1331年)と同寺の過去帳に残されている。
本尊の「金銅造阿弥陀三尊立像」は南北朝時代に制作されたと見られ、市の文化財に指定されている秘仏である。
現在東村山の徳蔵寺に保存されており、「太平記」の記述を裏付けているとされ国の重要文化財に指定されている、元弘の変で分倍河原にて討ち死にした上野国飽間(秋間)三士を供養する「元弘の板碑」は同寺の開祖玖阿弥陀仏が勧進したものである。
境内には、百日咳や風邪などにて咳に苦しむことが無いようにと、首が無い「おしゃぶき様」と呼ばれる六地蔵尊や廻国供養塔、更に江戸時代地元久米の領主であった旗本中根伝郎正重の墓などもある。
山門の前を鎌倉街道が通っており、開山時から江戸時代にかけて 久米地区の中心として賑わった寺と思われる。

3.大龍山永源寺 (弁財天)
開基は大石信重により応永26年(1419年)を創建とする曾洞宗の古刹である。

開山は雪心禅師、中興開基は滝山城主大石定久、中興開山は一種長純和尚であるまた中興開基には八王子城主北条氏照も加えられる。
鎌倉時代、鎌倉管領上杉憲顕に仕えた大石信重は、功あって多磨、入間両郡の内十三郷の領主となり守護代を務めた。 墓地裏手高台にある大石信重墓は市指定文化財である。
江戸時代には徳川家康より寺領30石並びに境内一万坪の地を賜り、代々の将軍に引き継がれ、14代家茂までの歴代朱印状控えが現存する。
三ケ年に一度、正月六日三本入り扇子箱の献上物を以って登城した時には、住職が駕籠に乗り、寺武士30人が付き添ったと言われ、その駕籠も現存する。

4.王禅山釈迦院佛眼寺 (福禄寿)
延暦21年(802年)開山、法印良秀により建立されたとされるが、「久米郷旧跡誌」によると疑うべしとされており、創立年紀は詳かで無いようである。
しかしながら、921年には分祀されたと伝えられる鳩峰八幡宮は佛眼寺の守り神として建てられたであろうと見られているため、それ以前の9世紀の建立だと推測される。
同寺は真言宗豊山派であり、本堂の左手に真言宗を象徴する空海像が無音を深めている。
又、本堂を挟むように市民大学の講師も勤められた田村興造氏が作られた、「一願観音」「慈母観音」の二体の観音像が奉納されている。
更に境内には歴史を語り継ぐ石造物が多く、享保10年(1725年)に建てられた六地蔵、 法華経千部供養塔は延享3年(1746年)の造立で釈迦如来像と判定されている。
【仏眼寺の前】
◇鳩峰公園を歩く
【鳩峰八幡宮】
◇レストラン「周」にて昼食
◇吾妻公民館

5.荒幡山無量院光蔵寺 (
寿老人)
真言宗豊山派に属する古寺で、創建は寛和年間(985年~987年)といわれる。
伝えられるところでは、昔火災に遭って奥富村にあった寺をここに移し、山号を「荒幡山」と称するようになったという。   
徳川時代には、荒幡村知行地400石を与えられた旗本永井氏から、寺領4町5反8畝余が保護された。寺領は年貢の免除地となっていて、その内田畑は小作地として耕作され、現物または金銭による小作料が山林収益とともに寺の収入となり、寺院の維持・管理に充てられていた。
 寺の古墓地入り口から墓地内には、延宝5年(1677年)から安永8年(1791年)にかけて荒幡村民によって建てられた六地蔵、念仏供養塔、石橋供養塔、日本回国供養塔など多数の石塔が残されている。
【ドレミの丘付近を通って】
6.月桂山本覚院喜福寺 (布袋尊)
光蔵寺と共に荒幡村にあったもう一つの寺、本覚院も真言宗豊山派の寺院である。
寺の過去帳によれば、庚暦2年(1380年)に創建され、弘治元年(1555年)大僧都法印 恵静によって中興されたといわれる。それ以来現在の住職31代に渡って継承されてきた古寺であり、本尊は不動明王である。
徳川家康から荒幡村400石の知行地を宛えられた旗本永井与次郎は46歳でこの地で逝くなり、本院に葬られた。
その位牌が残されているが、二代目以降は東京中野区の曾洞宗松源寺を菩提寺とした。
寺領は2町4反余歩で光蔵寺の約半分に過ぎなかったが、荒幡村では3番目に大きい地主であった。
弁天池には牛頭天王に荒神稲荷が合わせ祀られている。
長年無住の寺で建物の荒廃も進んでいたが、平成12年に新たに再建されて面目を一新し、本覚院の新しい歴史が刻まれている。
【荒幡富士】
7.川嶋山釈迦院海蔵寺 (毘沙門天)
創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「川嶋山釈迦院と號す、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺末、本尊釈迦を安ず」とある。
また、海蔵寺二十六世の「海蔵寺縁起」によると「川嶋山釈迦院海蔵寺」は、文明元年(1469年)山口城址の南、柳瀬川の南岸に創建された真言宗豊山派の寺院である。
開山は尊榮上人といい、開基は山口平内左衛門尉高治公(山口城主)の孫、岩岡民部少輔道岩入道一乗であるとあるが定かでない。

◆おもな出来事
出だしは好調!!
仏眼寺付近でNmさんがお財布を紛失してしまった。
Nsさんは足の甲が痛く昼食後「周」でリタイアした。
Nk(男)さんも「周」でリタイアした。
吾妻公民館でAhさんが合流した。Ahさんには長時間待たせてしまった。(コメン!!)
予報では3時過ぎ頃から雨が降り出すと言っていたが、昼食後にちょっと降り出したもののすぐに止んだ。その後も下山口駅に着くまでは大降りにもならず予定通り全行程歩けた。
【担当1班】