平河天満宮から迎賓館赤坂離宮を歩く

1. 月日: 令和2年2月6日(木)
2.集合:  8時45分 所沢駅2階改札内 (8時 58分準急池袋行きに乗車)
3.行程:  所沢駅発8:58〜清瀬駅乗り換え9:13発〜麹町駅10:09着
→平河天満宮→赤坂プリンスホテルクラシックハウス→清水谷公園・大久保利通哀悼の碑→ホテルニューオオタニ(昼食、庭園散策)→迎賓館本館・庭園→
四ツ谷駅(15時半頃)*四ツ谷駅で解散。 
4.費用:
交通費 所沢駅→麹町駅503円、四ツ谷駅→所沢駅503円(同経路)
昼食代 1,600〜2,200円(8種類程あり、各自購入)
迎賓館入館料 1,500円(当日集金)
5.出席者17名
◆麹町とは 
・麹町は本来、その周りに江戸幕府の軍事組織である大番組の屋敷をここに置いたところから始まりで、大番組とは幕府の管領である役方に番方と呼ばれた旗本と呼ばれた先頭集団でした。その部隊が分かれて屋敷が一番町から六番町まで配されておりました。番町、麹町は比較的高台に位置していました。
・徳川家康は入府の直後から町つくりに注力し、江戸城の西側を軍事的に防衛の要として屋敷を置いて旗本達を住ませ徳川に敵対する勢力の攻撃に備いていました。
・しかし、この場所は武士の世界なのに珍しく町人町で、麹を商う店が多くあったという説から麹町と呼ぶようになり、また、ここが府中や甲府に向かう甲州街道の見附の四谷見附があった場所から「国府路口」であるとの説もあります。
・麹町は明治時代には多くの知識人や文化人が住むようになり「番長文人通り」が有ります。ちなみに小説家の幸田露伴、泉鏡花、菊池寛、有島武郎、与謝野鉄幹・晶子夫妻、武者小路実篤、永井荷風、国木田独歩、吉行淳之介等が住んでおりました。また作曲家山田耕筰、滝廉太郎等が住んでおりました。「滝廉太郎の住居跡」には廉太郎のレリーフと御影石に「荒城の月」の楽譜が描かれた碑が建てられています。
また、東郷平八郎も暮らしており東郷公園として残っています。
・麹町はイギリス大使館を始め多くの大使館や参議員宿舎などがあり、黒塗の車が目立ちます。
・神田に続き出版社が有り文藝春秋・凡人社・週間宝島・昭文社等有ります。
・大学は上智大学・城西大学など少ないが小学、中学、高校は都内でも有名な学校が沢山有ります。
・以前は日本テレビの本社が有り、日本テレビ通りの町が今も残って居ます。現在は本社は新橋に移っていますが跡地にドラマや音楽のスタジオが建設され芸能人も多く見られます。
・通りにはお菓子の老舗「日本初のクッキー店泉屋」、「きんつば」の一元屋「わかば、浪速屋総本店」、「名代たいやき・わかば」が有ります。
◆平河天満宮
・平河天満宮は太田道灌が菅原道真の零夢により川越の三芳野天神を招き江戸城内に創設したのが始まりと言われて居ます。その後、徳川家康が江戸城に入城後本丸に築城して徳川家の宮として祀っていましたが、徳川秀忠の城改造により現在地に移されました。
・その後、紀州・尾張両徳川家、彦根藩井伊家の祈願所として宮司は将軍から格別の待遇を受けていました。
・祀られている神様は天満宮ですので菅原道真公ですが、この天満宮は相神として東照宮(徳川家康)も祀られています。
・境内は狭いが有形文化財の銅鳥居を始め力石、狛犬、牛、百度石、常夜灯、白臼などの民族文化財が多く見られます。
・天満宮には牛が置かれています。何故かとは宮司さん曰く「菅原道真公は丑年生まれであり、太宰府に流された2年後に亡くなった道真公の遺体は牛車で運ばれた・・・・」
・門前の狛犬は珍しく右側『獅子』、左側は『狛犬』であります。
・道真公と云えば『東風(こち)吹かば思いおこせよ梅の花 主なしとてはるなわすれそ』 と言う和歌で知られているように太宰府に流された道真公を慕って京都の白梅が太宰府まで飛んだと言う『飛び梅』の故事から太田道灌は江戸城を作るときにこの『飛び梅』から境内に梅林を作り、そこに天神様を招いたところから天神様には必ず梅林が有ります。・この境内にも多くの梅の木が植えられています。特に本堂の左側の小さな梅の木は仲睦ましく2個の実が寄り添ってついています。縁結びの梅と呼ばれています。
◆赤坂見附跡
・赤坂見附は江戸城の外郭門の一つである赤坂門の一部でこの辺は」「江戸城外濠跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は敵の進入を発見する施設である「見附」と呼ばれ見附が36個所有ります。
・江戸城の門は二つの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。現在赤坂門はその面影は殆ど残していません。
◆赤坂プリンスホテル・クラシックハウス 
・旧赤坂プリンスホテルの別館として美しいチューダー様式の洋館として親しまれておりました。
・プリンスホテルのリニアルオープンに伴って、当時の資料を基に照明器具や外装の主要部分は当時のままに復元し、気品高い優雅な2階建ての建物として立て替えました。東京都の有形文化財に指定されています。
◆紀尾井町と清水谷公園(大久保利通哀悼の碑)
・この近辺は北白川家の邸宅があった場所で、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊藩下屋敷があった場所で三つの藩の頭文字を取って「紀尾井町」と名付けられた場所です。
・井伊家は譜代大名の筆頭で大老職に任じられた名家でありました。幕末の井伊直弼の「桜田門の変」は有名です。
(参考;現在の赤坂プリンスホテルが紀州藩邸、ニューオータニが井伊彦根藩邸、上智大学が尾張藩邸でした)
・ホテルニューオオタニの正面に向かう坂が「紀尾井坂」と名付けられています。
・公園内には「心」を模した「心字池」や「偕香苑」と云われる茶室が有ります。
・また東京都の玉川上水本管が出土された「水道の石枡」が歴史を物語っております。
・テレビドラマでも有名に西郷隆盛の朋友の大久保利通が明治11年(1878)5月14日の朝、赤坂御所に伺う途中にこの場所で暗殺されました。(紀尾井坂の変)
・その後大久保利通の業績を称える碑(6.27mの高さ)が公園の中央に建てられまた。
・墓所は青山霊園に有ります。
◆ホテルニューオオタニ
・ホテルニューオオタニは江戸時代初期には加藤清正の下屋敷でした。その後、美しい庭園に囲まれた伏見邸となりましたが第二次世界大戦後伏見氏が手放すことになり、暫く使用せずにいたために荒れ果てていました。
・外国人が買うことを知った大谷米次郎氏が由緒ある地を外国に渡してはいけないと買い取り、荒れ果てた庭を改修して昭和39年、政府の依頼を受けて東京オリンピックのニューオオタニとして開業しました。
・日本庭園は江戸時代の風情を残して。300匹が泳ぐ池、高さ6mの大滝、30個の燈籠、庭には佐渡の金山から運んだ赤玉石、群馬の山波、ひすいの原石、龍眼石、葡萄玉石などの奇石や名石等が四季折々に表情を変えて楽しめる都内でも有数の庭園として開園しています。
・叉庭には別邸としての食事が楽しめる荘がいくつも有ります。
参考;昼食は一流ホテルとしては格安のスープ&サラダーバー、ドリンクバー、デザートバー付1,620円~2,200円で食べられます。
◆喰違見附跡
・江戸時代初期の慶長17年(1612)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝えられています。
・喰違門は江戸城外郭門のひとつです。通常江戸城の城門は枡形門で石垣を巡らしたものですが、ここは土塁を前後に伸ばした直進を阻むものでした。
・戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口を言う)構造となっています。
この地域は二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永13年(1636)築造の江戸城外郭門に先駆けて江戸城防衛の要として構築したと考えられています。
・現在は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子をとどめています。この遺構は江戸城築城史上重要な意味があるとのことです。
◆迎賓館
・迎賓館は江戸時代はこの敷地は紀州徳川家の江戸中屋敷でした。維新後、赤坂離宮と成り、東宮御所となりましたが東宮御所としてあまり使われておりませんでした。
・戦後、建物敷地が宮内庁の皇族から行政に移管され国立国会図書館、内閣法制局、東京オリンピック組織委員会名等に使われていました。
・その後、改築して昭和49年4月、国の迎賓施設『迎賓館赤坂離宮』として完成し、外国の国王、大統領、首相など国の公賓の宿泊、歓迎行事、政財界の会議、レセプションなどの華々しい外交活動の舞台になりました。
・政府は再度大規模な改修工事を行い、平成21年現在の外国の迎賓施設として使用しています。
・外観は花崗岩でがっしりとしたネオ・バロック様式の二階建て左右対称の宮殿す。
・屋根は緑青で覆われ中央は左右対称に青銅製の甲冑・弓矢など飾られ、金の星をちりばめた天球儀と翼を広げた金色に輝く霊長が4羽飾られています。
・本館内の二階には8本の華燭な大円柱、天井には『第7天国』という絵が飾られた大ホールが有ります。
・客室として
➀賓客のサロン(応接室)として表敬訪問や首脳会議等に使用される朝日の間があります。天井には朝日を背に受けた曉の女神オーロラが左手に月桂樹の小枝を持ち、右手に手綱を持って4午だての白馬の車に乗って天空を駆ける姿が描かれています。
②次ぎに晩餐会の際に一般客に食前酒、食後酒を供する場として使用される羽衣の間が有ります。広さ300㎡、室内装飾フランス18世紀末の古典様式『鏡と金色と緋色』の豪華な大部屋です。天井絵には約200㎡の『羽衣』が描かれています。
➂次ぎに条約や協定の調印式を行ったり、晩餐会、レセプションの際、国賓や公賓を謁見したり、国賓や公賓のテレビインタビュー等に使われる彩鸞の間が有ります。東西の大きな鏡の上と、イタリア産のねずみ色の大理石で造られた刀剣がある暖炉の両脇にそれぞれ鳳凰の一種で有ります鸞(らん)と呼ばれる架空の鳥が翼を広げた姿に金箔をはった石膏があることから彩鸞の間と名付けられています。
④次ぎに主に国賓・公賓の公式晩餐会がかいされる大食堂で最大130名の席が設けられている花鳥の間が有ります。花鳥の由来は格天井の油絵や壁に貼られた七宝焼の画題が花と鳥から成っているところから名付けられています。天井には24枚の油井と12枚の絵画が張り込まれています。板壁には四季折々の花や鳥を描いた楕円形の七宝焼が30枚飾られています。
◆四谷見附跡
・江戸城36見附の一つで江戸城半蔵門から武蔵国国府(府中)を経て甲州(山梨県に至る重要なルート(現在の甲州街道で半蔵門から新宿を通る国道20号線です)の途上に築かれた門でした。
・この門は枡形門で、江戸城の西の玄関口として江戸城防衛の要の城門でした。寛永13年(1636)に長門萩藩・毛利秀就によって城門石垣が作られ、寛永16年(1639)門が建設されました。その構造は現在の新四谷見附橋に高麗門を置き、右折する位置に渡櫓を配置した枡形門でした。
・門は明治5年(1872)に渡櫓門が撤去され、明治32年(1899)に枡形の石垣が多く撤去されましたが現在少し残っています。
参考;見附とは江戸城を守るための番兵の居場所という意味で江戸城を囲む掘りと一体となって江戸城を守る見張り役として街道の交通の要所に置いた場所で江戸は36個所置かれていました。
・四谷門は田安門(上州道)、飯田橋門(柴崎門)、外桜田門(小田原口・旧東海道)、常盤橋門(浅草・奥州道)と並んで江戸五門口のひとつで、半蔵門から四谷門を経て甲州街道へ出る重要ルートの途上に位置していました。
・この道筋は武蔵国の国府(府中)に通じる道として、『いざ』、というときに将軍が甲府へ逃れる江戸脱出にも成っていた重要な門だったのです。現在、埋められ場所は上智大学真田堀運動場となっています。
◆旧御所トンネル
・四谷駅のホ-ムから見ると中央快速の軌道と総務線千葉方面行きの3本のレールがあり、三本は同じトンネルにありますが、中野方面行きの軌道だけが離れており、トンネルも離れています。
・この中野方面行きの軌道だけが迎賓館正面ゲートの前から迎賓館の敷地の右部分をくぐり、学習院初等科の校庭のはずれを信濃町方面に抜けているのです。赤煉瓦に縁が取られた古めかしいトンネルを見ることができます。「旧御所トンネル」と書かれています。
・JR中央線は昔は「甲武鉄道」と言って明治22年(1889)に開通しています。明治27年(1894)日清戦争が勃発して急遽青山練兵場(現在の神宮外苑)に軍事物資を運ぶために本来なら認められない赤坂御所、学習院の下にトンネルを掘ったのが,今も残っています。
・従って、このトンネルは明治27年(1896)開業以来利用されている国鉄史上貴重なトンネルとして残されています。
【担当:3班】