川越の町 喜多院周辺を歩く

★月日 : 10月6日 (金)
★集合 : 本川越駅 9時 30分、駅改札を出たところに集合。
 ・乗車電車    所沢駅発 9時 06分→新所沢駅発 9時 10分→本川越駅着 9時 26分
 ・鉄道運賃往復 所沢駅~本川越駅= 290円×2
★内容:  喜多院周辺
 ・散策時間 : 2~3時間、 徒歩距離:本川越駅~喜多院≒1.2km
 ・コース :本川越駅出発(9:40)→蓮馨寺→松江町通り→喜多院(館内見学)→五百羅漢→昼食後自由時間
 ・喜多院(入館料) 400円
★参加者: 10名

☑ 蓮馨寺(れんけいじ)
浄土宗の寺院で山号は孤峰山。院号は宝池院。
本尊は阿弥陀如来。 
戦国の世も末の頃、川越を平定した小田原の北条氏康は、家老の大道寺駿河守政繁を川越城の城主とする。
寺の名となった蓮馨大姉は、その母堂で、社会の平安を祈り民衆に心安らぐ場を与えるため、1549年(天文18)甥にあたる英才の誉れ高い感誉存貞(かんよぞんてい)上人を招いて第一世とした。
これが蓮馨寺の始まりである。
存貞上人は後に、現在の浄土宗大本山増上寺の第十世となる。
【おびんずる様】
当山にいた弟子の存応(ぞんのう)上人は、やはり大本山増上寺の第十二世となり、その人徳によって徳川家康と代々将軍家が檀家となっている。
江戸時代1602年には浄土宗の関東十八檀林の1つとなり、葵の紋所が許された幕府公認の僧侶養成機関として多くの学僧を育てた。
存応上人の直弟子・呑龍上人を祭る呑龍堂があり、安産に霊験があるとされ、毎月八日は縁日となる。
また呑龍堂の外には釈迦の高弟・おびんずる様が鎮座、さわると病気が治ると人気がある。

☑ 喜多院
平安初期の830年、淳和天皇の勅願で慈覚大師が天台宗の教えを東国に広めるために無量寿寺として開創した寺院。山号は星野山(せいやさん)。現在、慈恵(じえ)大師(元三大師)を祀り、川越大師の別名で知られる。正式名は星野山無量寿寺喜多院と呼び、かつては仏蔵院(北院)と呼ばれていた。徳川将軍家から庇護を受け、寺勢をふるったといわれている。
*元来、星野山の中に北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、 多聞院と称していた。
1599年(慶長4年)徳川家の尊崇が篤かった天海僧正が住職として入寺 し、寺号を北院から喜多院と改めた。徳川秀忠の関東天台法度により関東総本山と定められ、500石の寺領を賜った。また、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、ますます隆盛を誇ることになる。東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移る。
1638年川越大火で山門・経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で江戸城紅葉山御殿の一部を移転した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。
1558~1570年(永禄年間)頃までは北院・中院・南院の3院が存在していたが、1633年(寛永10年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられたため、中院は200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆や地蔵尊が残っているだけである。
☑ 江戸城遺構、客殿・書院・庫裏が江戸城紅葉山御殿から(国・重文)
江戸城にあった建物は川越に最も現存している。川越大火で焼失した際、江戸城の建物が移築された。客殿には「徳川家光公誕生の間」、書院には家光公の乳母である春日局が使用していた間があり、「春日局の化粧の間」と呼ばれている。庫裏も移築されている。全て国の重要文化財となっている。
喜多院の北方には江戸末期に建設された川越城本丸御殿が現存しており、江戸時代初期と末期の御殿建築を直接比較することができる。
☑ 慈恵堂(じえどう)川越大火(1638年)後、翌年再建される(県・有文)

慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主慈恵大師良源(元三大師)を祀る堂宇で、大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ばれる。現在、喜多院の本堂として中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修している。
☑ 鐘楼門(附:銅鐘)(国・重文) 1702年(元禄15)建立。
☑ 多宝塔(県・有文)

総高13m方三間の多宝塔(仏塔)。江戸時代初期の特徴が表れている。
☑ 山門(国・重文)(市・史跡)
1632年(寛永9)天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
☑ 松平大和守家廟所(市・史跡)
慈恵堂の裏に石の柵で囲まれた大きな五輪塔が並んでいる。1767年(明和4)~1866年(慶応2)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所になっている。
松平大和守は、徳川家康公の二男結城秀康の子直基を藩祖にする。松平大和守が川越藩主であった七代100年間の間に川越で亡くなった5人の藩主(朝矩、直恒、直温、済典、直侯)が葬られている。
☑ 慈眼堂(じげんどう) (国・重文)
慈眼大師天海僧正を祀る御堂。1643年(寛永20)10月2日寛永寺で入寂される。1645年(正保2)に家光公の命により建立される。
厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。御堂があるこの丘は7世紀初頭の古墳を利用している。
☑ 仙波東照宮(国・重文)
1616年(元和2)、駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬るが1617年(元和3)日光山に改葬の途中、3月23~26日までの4日間遺骸を喜多院に留めて、天海僧正が導師になり大法要を営んだ。
そのことから境内に東照宮が祀られ、1633年(寛永10)に立派な社殿が造営された。ところが1638年(寛永15)の川越大火により類焼。1640年(寛永17)家光の命で再建したものが現在の社殿である。
本殿は三間社流れ造りの銅瓦葺、瑞垣は延長30間の瓦葺で中央正面には平唐門がある。拝殿は単層の入母屋造り、正面の向拝は1間、幣殿は背面が入母屋造りで、前面は拝殿の屋根に接続し、どちらも銅瓦葺である。
☑ 五百羅漢
「日本三大羅漢」の一つ。1782年(天明2)~1825年(文政8)にわたって建てられた538体の仏が鎮座する。
☑ 林崎甚助日本の剣道・居合道の祖
出羽国(現在の山形県)出身の林崎甚助(はやしざきじんすけ)公は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武芸者で、居合抜刀の始祖といわれている。生涯武芸の道を極め、旅先の川越の地で終焉を迎え、当山で葬儀が執り行われた。境内には「林崎甚助重信ノ鎮魂之地」の石碑が建立され、毎年2回、全国から名将が集い、奉納演武会が開催されている。
☑ 慈恵大師良源 912年(延喜12)~985年(永観3)
喜多院は古くからお大師様と呼ばれ、多くの人々に親しまれている。大師様とは慈恵大師良源のことで、1月3日に亡くなり「元三(げんざん)大師」とも呼ばれている。大師という名前は立派な高僧に朝廷より贈られる尊称でおくり名といい、亡くなった後に賜わる。
大師は比叡山の復興、修僧の指導、修学の奨励、規範の確立など厳格に山内をまとめ966年(康保3)55歳の若さで、第18代天台座主に就任した。
☑ 天海大僧正 1536年(天文5)~1643年(寛永20)
喜多院第二十七世住職。慈眼大師。会津に生まれ、比叡山円城寺などで修業した。関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画した。
1612年(慶長17)天海の震源により家康公は無量寿寺再興を認め、喜多院を関東天台宗の本山と定めて天海の在住を招請した。これを受け、以後、関東天台宗寺院はすべて喜多院・天海のもとに属することになる。
108歳まで生きた天海僧正が残した「気は長く 勤めは堅く、色うすく、食細くして、こころ広かれ」という言葉は養生訓として有名である。
1643年(寛永20)10月2日東叡山寛永寺にて入寂。5年後、朝廷から「慈眼大師」の号を賜い、朝廷から賜る大師号としては史上最後、日本で7番目の大師様となる。
[出典: 川越教育委員会資料]
(大河原氏調査)
☑ 「あんたがた何処さ」のわらべ歌
帰り道、南院遺跡の看板の隣に「あんたがた何処さ」のわらべ歌の発祥地はこの辺であると記された立札が立っていた。歌詞の船場山は仙波山でこの付近を指していると言うのだが、果たして真偽のほどは如何に?