鎌倉散策 ~禅寺を中心に北鎌倉から鎌倉へ~

将軍源頼朝がなくなると鎌倉幕府の実権は北条氏に移り北鎌倉に禅宗(臨済宗)の寺をおき、禅宗との結びつきを強めて執権政治を行いました。
鎌倉五山第1位の建長寺、第2位の円覚寺、女性を救うための東慶寺、紫陽花で有名な明月院、鎌倉八幡宮、新しくなった壇葛を鎌倉ガイド協会の川出さんの案内で北鎌倉から鎌倉まで約5.5kmを散策します。
1.月 日:5月16日(木) 
2.集 合:8時15分(8時22分の元町・中華街行乗車)所沢駅2階改札内
3.行 程:所沢8:22~横浜9:42乗換JR横須賀逗子行9:57~北鎌倉10:18着
北鎌倉駅10:25--東慶寺(10:40~11:20)--円覚寺(11:30〜12:10)--明月院(12:20〜12:50)--建長寺,昼食(13:10〜14:10)--鶴岡八幡宮(14:30〜15:30)壇葛(15:30〜15:50)鎌倉駅 ( 解散)
○帰り電車時刻:16:08/16:39(鎌倉〜池袋・JR湘南新宿ライン快速)
         16:22(鎌倉〜横浜で乗換/東急東横線特急飯能行〜所沢)
4.費用計:4,363円
  交通費往復 2,363円 入山料 1,500円(東慶寺、円覚寺、明月院、建長寺)
  ガイド料6名以上1人500円、
5.昼 食:各自持参ください。
6. 出席者 :11名
◇東慶寺
【 宗派】臨済宗円覚寺派 【 山号寺号】松岡山東慶総持禅寺 【 創建】弘安八年(1285) 【 開山】覚山志道尼 【 開基】第9代執権 北条貞時 【 本尊】釈迦如来
北条時宗の没 した翌年の弘安八年 (1285)、夫人覚山尼が開山となり建立した寺である。覚山尼の遺品ともみられる水月観音菩薩は鎌倉一の美女として夙に有名である。
五世用堂尼は後醍醐天皇の皇女でその為「松ヶ丘御所」とよばれた。二十世天秀尼は徳川家康の娘千姫の養女で「権現様お声掛かりの寺」となった。
 “縁切り寺" “駆け込み寺"の 名で広く知られる尼寺として栄え、3年修業すれば離縁できる「縁切寺法」で多くの女性が救われた。
その様子は 「出雲にて結び鎌倉にてほどき」「くやしくば、尋ね来てみよ、松が岡」など東慶寺を詠んだ多くの川柳にもうかがえる。
明治四年 (1871)に廃止されるまで、約六百年にわたり受け継がれた。明治三十六年(1903)には尼寺から臨済宗円覚寺派の男僧の寺になった。 
☆ 墓地には数多の有名 人が眠っている。西田幾多郎、 鈴木大拙、岩波茂雄、高見順他。
 ◇円覚寺
【 宗派】臨済宗円覚寺派【 山号寺号 】 瑞鹿山円覚興聖禅寺 【 創建】弘安五年(1282) 
【 開山 】無学祖元(仏光国師) 【 開 基】 第8代執権北条時宗 【 本尊】宝冠釈迦如来
【総 門】
鎌倉五山・第二位。 
文永の役 (1274)・ 弘安の役 (1281)の元寇の彼我の戦死者を慰霊し、禅道をひろめるために、時宗が崇敬していた宋僧・無学祖元を招いて創建された禅寺。 
【三 門】
【仏 殿】
【白龍図(守屋多々志作)】
【宝冠釈迦如来像】
盛時には七堂伽藍が整えら れて、塔頭も42院を数えたが、たびたびの震災や火災で創建当 時の建物は滅び、現存の古いものは室町から江戸時代にかけての再建である。 
最古の建物は禅宗様式で建てられた舎利殿 (室町時代)で、国宝である。
【妙香池】
【舎利殿】
今も境内は山門(天明三年[1783]再建)や仏殿、方丈などがほぼ一直線上に並ぶ典型的な宋の禅寺様式で伽藍配置は 創建当時に近い。梵鐘(洪鐘)は第9代執権・北条貞時が寄進したもので、正安三年(1301)の銘がある。 鎌倉三名鐘の一つで、国宝である。 
◇明月院
【 宗派】臨済宗建長寺派【 山号寺号】福源山明月院 【 創建】弘安四年(1281) 【 開山】密室守厳(みっしつしゅごん)【 開基】関東管領・上杉憲方 【 本尊】聖観世音菩薩
この寺の起源は、永暦元年(1160)山 ノ内首藤経俊 が父の供養のために創建した明月庵といわれる。 その後、北条時頼が最明寺を建立したが廃寺となり 、その子・北条時宗が蘭渓道隆を開山として禅興寺を建立した。 明月院は、永徳三年(1383)頃、上杉憲方が禅興寺 を中興する時に塔頭として建てた寺である。
【本 堂】
【悟りの窓」
【枯山水庭園】
【開山堂】
【北条時頼公墓所】
明治になり 禅興寺は廃寺となり、明月院のみが残った。枯山水庭園、宗猷堂(開山の密室守厳を安 置 )、「瓶の井」がある。 また、鎌倉市内のやぐらの中で最大級の「 明月院やぐら」があり、その中央には上杉憲方の供養塔といわれる宝筐印塔が安置さ れている。境内北側には、時頼の廟所、その奥に時頼の墓がある。
◇建長寺
【 宗 派】 臨済宗建長寺派  【山号寺号】巨福山建長興国禅寺 【 開山】蘭渓道隆 (大覚禅師) 【 開基】第5代執権北条時頼 【本尊】地蔵菩薩
【天下門】
鎌倉五山・第一位。日 本最初の禅宗専門道場で初めて「禅寺」と称した。北条時頼が宋僧・蘭渓道隆を招いて、上は皇帝の万歳、将軍家及び重臣の千秋、天下太平を祈り 、下は源氏三代。北条一族の死者の霊を弔う ために創建した。伽藍配置は中国の寺を模したといわれ、今も総門・三門・仏殿・法堂などがほぼ一直線上に並びその趣を今に残す。盛時には塔頭は49院を数えた。現在の建物はほとんど近世の再建・移築にかかり、創建当時から 変わらず残っているのは柏槇(道隆が種を宋から持ってきたといわれている)である。
【総 門】
三門は安永四年(1775)に再建されたものである。
【仏 殿】
【仏殿には地蔵菩薩を安置】
【法堂には千手観音を本尊として安置】
【正面は唐門で方丈の正門/右は法堂】
【方丈の内部】
【得月楼】
仏殿と唐門は元芝の増上寺の徳川秀忠夫人霊屋を正保四年 (1647)移築、法堂は文化十一年(1814)再建でいずれも国重文である。法堂の天丼には5爪の龍「 雲龍」が画かれている。 北条時頼寄進の梵鐘は国宝であり 、鎌倉三名鐘の一つ。 蘭渓道隆による銘文が残り建長七年(1255)鋳造された。 
◇鶴岡八幡富
【祭神・上宮】 応神天皇(第15代天皇 )、比売神、神功皇后(応神天皇の母)
【本宮(上宮)】
宇佐神官や石清水八幡官と共に、全国の八幡宮を代表する大社である。治承四年 (1180)、 源頼朝が鎌倉に入ると、先祖の源頼義が石清水八幡宮を勧請してあった由比郷の鶴岡若官を、今の場所に遷座した。建久二年(1191)町の大火により類焼したので、社殿を大臣山の中腹に造営し新たに石清水八幡宮を勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。これが本宮 (上宮)で、この時若宮 (下宮)も再建し、上下両宮の今の形になった。以来当宮は鎌倉幕府の宗祀の首座に置かれ、源氏の氏神、武門の守護神として厚く崇敬された。
【若宮(下宮)】
【舞 殿】
将軍は年初に社参し、朝廷からの除書を勅使から受ける時も、拝賀の式も社頭で行うのを慣例とした。足利氏や徳川氏等からも篤く崇敬され、社領の寄進、社殿の修造などが行われた。上宮は文政十一年(1828)江戸幕府十一代将軍・徳川家斉に、下宮は寛永元年(1624)二代 将軍・徳川秀忠によ り修復造営され、ともに国重文である。以前は神と仏が一緒に祀られ、 鶴岡八幡宮寺と呼ばれていたが、明治になって神仏分離により現在のような神社となった。平成23年 (2011)3月 11日 におきた東日本大震災の追悼・復興祈願祭として神道・仏教・キリスト教が一堂にあつまり合同の祈願をおこなっている。2011年は鶴岡八幡宮で行われ、その後は毎年、大寺やキリスト教協会で執り行われている。鎌倉は宗教都市である。
《 若宮大路と壇葛》
源頼朝は朝廷・平氏に代って、天下の政治を担う為、鶴岡八幡宮を中心とした都市づくり を実施した。鶴岡八幡宮を現在地に遷座した後、寿永元年(1182)に設営したのが若宮大路である。頼朝自身が監督し、北条時政以下の諸将が土石を運んだといわれている . 政子の安産を祈願して、この大路の中央には置道(段葛)を同時に築いた。若宮大路は、鎌倉幕府による都市機能の最も重要な遺跡であると同時に、現在でも鎌倉の主要道路としてその機能を発揮している世界的にも珍しい大路である。平成28年 (2016)3月30日 、1年半をかけた壇葛が改修され若木のソメイヨシノ177本を新しく植樹し、壇葛の渡り初めが盛大に行なわれた。
【資料:NPO法人 鎌倉ガイド協会】


コメント

我逢人 さんの投稿…
みなさんからのコメント
①鎌倉は何度か訪れたことがありましたが、ガイドさんの説明付きでの散策は、大変有意義でした。次回も楽しみに致しております
②昨日は天気に恵まれ過ぎて?ちょっと暑く、朝の電車トラブルとガイドさんの熱心なこともあり、いつもより長い例会となってしまいました。
ただ今まで何回も行った寺社もガイドさんの説明で理解が深まったことと思います。
お疲れになった方もおられると思いますが数日間体を休めてまた来月お会いしましょう。
③天候にも恵まれ楽しい1日を過ごすことが出来ましたね。
④今回、私にはことのほか厳しくとても大変でしたが、気持ちのいい新緑の中、皆さんとご一緒はとても楽しい散策でした。今後ともよろしくお願いいたします。
⑤思わぬ電車遅れがありましたが、4回目の鎌倉散策が無事に終わりホットしております。
建長寺での昼飯はガイドさんも初めてとのこで私達は貴重な体験をしたようです。
最近は階段登りがきつくなっていますが、これからもよろしくお願いいたします。
我逢人 さんの投稿…
昨日はお世話になりました。天気にも恵まれ、新緑の中、有意義な散策を楽しみました。
ありがとうございました。